エッセイみたいなもの

今日のエッセイみたいなもの 2021年1月28日

2021年1月28日

なんだか、というか案の定というか、まちが閑散としています。

今しばらくは仕方のないことなのだと割り切るしかないのでしょうけどね。

こんな話を聞きました。「ウィズコロナという発想がとても日本人的だ」とね。

アフターコロナではなくて、共生するということです。

古来から日本は自然と共生することを選んできた背景があって、自然を制圧したり支配するという意識は薄かったんです。たとえば、神様はあちこちにいて、それと同じように鬼もあちこちにいて、それぞれにどっちが善でどっちが悪なんていうこともなくて、ただただ、神様も鬼もそこにいるという感覚。日本人の大勢は、ただその存在を認めて自分がどのようにそういったものと付き合っていくか、ということを考えたわけですって。

どちらかに傾斜して、制圧を試みることも出来たのかもしれない。でも、そうじゃなくて「畏敬の念」をもって共存する道を選んできたのです。

ちょっとオカルトじみて聞こえるかもしれないけれど、なんとなくこういう感覚ってわかるんですよね。僕がやっぱり日本人だから、なのかな。

この話の延長上で、僕がふと感じることは「悪」と「陰」を別の感覚で捉えているところなんだよね。「悪」は害をなす意思があるものだけれど、その意思がないものは「陰」。文字通りただの影です。だからっていうのと同じように意思を持たないウィルスは「陰」ということになる。そうなると自然界のものは「陰」だよね。

そんな発想があって、どうやって共存していくかの応えを「自分の身の置き方」に求めていくのが古来から続く日本の精神性というような話でした。

正しく恐れて、正しく距離をおくこと。そういうことが、3密の回避という行動だったり、マスクをするという行動だったりするのかしら。ウィルスを消し去るのではなく、あるものとして対策を取るってことではワクチンなんかもそれにあたるのかもしれない。

「陰」の部分を全て消し去ってしまうと、世の中がちょっとのっぺりしてしまうよね。

  • この記事を書いた人

武藤太郎

掛茶料理むとう2代目 ・代表取締役・会席料理人 資格:日本料理、専門調理師・調理技能士・ ふぐ処理者・調理師 食文化キュレーター・武藤家長男

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