料理の大抵のことは知識でどうにかなる。というと怒られるかな。
僕は料理人としての僕をあまり信用していない部分があります。
その理由は調理技術や過去の料理について知らないことが多すぎる。とうこと。料理の歴史は僕の想像を遥かに超えるレベルで長く、その全容を把握するだけでも膨大な知識と経験が必要なのね。だから、知識で知っていて経験のある部分についてはそれなりに分かっているけれども、その外側の深遠なる世界は素人同然と思っているのです。
例えばこんなこと。
一つの料理を作れるようになって、それをベースにして料理を進化させる。そうすると新しい創作したような気になるとする。だけれども、実際のところは、どこかの誰かが既に同じようなことはやっていて、もっとクオリティが高い事が多い。だって、ぼくは今初めてそれを作ったのだけれど、別の誰かは何度も工夫を重ねているのだもの。その人が知識も経験も豊富な料理人なら、僕なんかが逆立ちしたってかないっこないのだ。
だから、まずは真似をするのです。それから、たくさんの料理を食べること。あちこちの料理店に出かけていって食べてみる。もちろん自分でも再現できる範囲で作って食べてみる。そういうことを繰り返して一つずつ習得していくのね。膨大なデータをインストールする地道な作業なのだけれど、これが料理人としての自己投資なのだと思います。
「守破離」という言葉がありますよね。しっかりと基本となる「型」を守って身につけて、それから型を破っていって、最終的にはそこから離れて自立しなさいということらしいのだけれど。なんとなくそういう流れに似ているなと思います。僕の場合は「守」の拡大解釈なのかな。先人たちの全てとまではいかないけれど、その多くを「守」として捉えているところがあるかもしれないなあ。そうするとずーっと「守」の世界にいなくちゃいけなくなるよね。
と、そんなわけにもいかないので「破」についてもどんどん挑戦しています。人のモノマネばっかりでも進化しないだろうと直感が働くのだ。だから両輪で進めることにしている。
学びながら挑戦を繰り返す。これって、もっと美味しい料理を作る為に、ふたつのアプローチをしているってことだよね。「自分で工夫をする」と「自分より優れた人から学ぶ」のふたつ。
冒頭で「料理の大抵のことは知識でどうになかる」と言ったのは、自分より優れた料理人がたくさんいる状態なら、それを知って再現するだけでも十二分に一流の料理人と呼べるからだ。再現するって言っても、難しい技術が必要なものもあるけどね。ちなみに、僕より優れた料理人なら星の数ほどいる。数えたことはないけれど、千年以上の歴史をトータルすると大変な人数になるはずだ。
料理研鑽に関してというか、それこそ大抵のことはこんなスタンスで捉えています。というお話でした。言語化するって難しいね。