エッセイみたいなもの

今日のエッセイ 料理の今と昔 2021年2月20日

料理というのは、時代によって随分と姿を変えてきていますよね。お刺身だって、数百年前には今の形じゃなかったんだよ。醤油というものがまだ無くて、酢味噌や煎り酒を付けて食べていたんだって。

食事をするスタイルだって違ったみたいよ。

よく知られているのはお膳だよね。床に直接座る生活をしていたから今のテーブルのような高さではないし、みんなで一つのテーブルを使うのではなく、一人でちっちゃいテーブルを独占するスタイルだ。ただ、これはちょっといい暮らしが出来ていた人たちの食事スタイルで、そうじゃない人たちは床に直接お皿を並べていたんだ。

いつかどこかのタイミングで「床に座る」が日常的じゃなくなっていって、それに合わせてテーブルが普及していったんだろう。というのは、昭和の時代に起きた出来事なのでそんなに昔の話ではないのだけれど。テーブルがあったからテーブルを使うようになったのではなくて、床に座らなくなったからテーブルを使うのが自然になっていったというのは、面白いよね。

周りの状況が変わってくる。そうすると、旧来のやり方が少しずつマッチングしなくなってくる。それでも旧来のやり方の発祥経緯を知っている人は、慣習的に旧来のやり方を踏襲し続ける。そんな中で、事情を知らない人が純粋な気持ちで「そもそも本来は」と本質論で物事を変えていく。従来のやり方の人と、そもそも論の人とが衝突する。その衝突を見ていた別の人が、そもそも論をベースに現実にマッチングさせて社会に適合させていく。それもまた、いずれマッチングしなくなっていく。

歴史を紐解くと、ほとんどの社会変革っていうのはこの順番でやってくるらしいね。

今の時代にマッチングしなくなってきているものは、そういうシステムの中で新しいやり方に置き換わっていくのが自然なことなのかな。会席料理や茶懐石、本膳料理という旧来のスタイルも、もうとっくに本来の意味を失いかけているのだよね。発祥したときは、合理的に社会に適応したスタイルだったのだけれど、いまは「そのスタイルそのものをエンタメとして楽しむ」という感じになっているものね。

僕は、それで良いと思っています。

本来の意味や意義みたいなものも、全部ひっくるめて今のスタイルなのね。それもどうせ変わるし。未来永劫なんてことはないよ。いま、生きている人たちが「いい時間」を過ごしてもらうために。いま、に合わせて「いい場所」「いい料理」を提供する。そんな感じかな。

今日も読んでくれてありがとうございます。もう日本料理とかフランス料理とか、そういう区分も難しくなってきたよね。テーブル文化のおかげで日本料理でも大皿を使いやすくなったかな。

  • この記事を書いた人

武藤太郎

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