エッセイみたいなもの

今日のエッセイ 教養は人間を知ること 2021年3月29日

昨日の続きです。教養があると「運命から自由になる」ということをゴールとして着地したのですが、ここをもっと掘り下げてみたくなりました。抽象的すぎて、なんだか「ふわっ」としてますもんね。教養を学んだら何が起こるのかを考えてみますね。
余談ですが、このエッセイシリーズは「書きながら考えている」ということも結構あります。今回もそれですね。だから、今この段階で僕自身も結末が見えていないです。

さて、日本最初の「教養」から紐解いていきますか。掛川藩校教養館、現在の「松ヶ岡(http://www.bt-r.jp/matsugaoka/)」です。
国学や漢学、蘭学に医学や算術、天文学なんかも教えていたみたいです。まず、国学と漢学は古典、漢学だったらいわゆる四書五経ね。これを学ぶと道徳観が養われるらしい。昔の偉い人達が人生というものについていろいろと考えをまとめてくれたので、それを学ぶということです。どういう生き方が良いのかということね。孔子とか孟子とかに関する書物だね。
ところで、学んでいるときはどういう感覚なんだろう。こういう学問ってさ問題を問いて慣れていくような、例えば計算問題を解くようなものとは違うよね。だからといって、「孔子がこう言っているからこのようにしなさい」ということでもないような気がする。そういう側面もないではないだろうけど、それで人間が醸成されるものでもないでしょう。僕なら「へぇそういう考え方もあるんだね」という感じになるだろうし。そもそも、一人の考えだけを学ぶわけでもないからね。そうすると、たくさん「へぇ」が生まれそうだという気がしてきた。それで、たくさんの「へぇ」が生まれてくるとどうなるかというと、そうだな、自分と比べるかもね。そうすると、自分を相対化して見ることができるようになるということが言えるかもしれない。ちゃんと「自分自身」を見つめられるようになるということかな。ちょっとリベラルアーツっぽいですね。

国学や漢学、それに歴史を学ぶっていうのは、事象を知るということの他に「人間とはなんぞ?」を知ることになるんじゃないかと思います。
自分と他者の違いを見ることで、自分を知ることになる。または共通点を見出して人間社会を知る。それから、他の時代を知ることで今生きている時代を知る。そういった視点で物事を見る訓練をする。
これが、教養を学ぶことの原点のような気がしてきましたよ。そうであれば「ああ、あの人は教養があるね」といった文脈の意味が見えてきます。「あの人は、人間をよくわかってるね」と言い換えても意味が通じるんじゃないですか。

現代教育の中では、あまり見られなくなった教育ですね。義務教育世代ではちゃんと触れないですもん。社会人類学とか文化人類学に近いといえば近いのかもしれないけれど、大学で授業を取らないと出会わないですよ。小中高のあたりに取り入れても良さそうだけどなあ。人と社会を知るための古典学習をさ。

  • この記事を書いた人

武藤太郎

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