エッセイみたいなもの

今日のエッセイ コスト意識が強すぎるかも 2021年4月6日

コスト意識というのは大切な考えです。というのは一般的に言われていることだ。なんだけれども、少し行き過ぎる場合もあって、それはそれで考えものだなあとも思うのです。

何かを求める場合には必ずコストが発生するよね。このコストっていうのは、お金であったり、労力だったり様々だ。ものを買うときだってお金を支払うわけだし、筋肉隆々の体を手に入れるときだったら筋トレをするという労力なんかを費やすわけだ。ここまでは至極当然の話ね。
たまに、他の人よりも低いコストで何かを得られる人っているじゃないですか。欲しい物だったら、その生産者が親戚だからって理由で安く手に入れることもあるだろうし、常連だからってことで値引きをしてくれることもある。恋愛だったとしたら、一生懸命に口説かなくても相思相愛になることだってあるよね。恋愛はコスト以外の要素が多すぎるから、例としてはあまり良くないか。

それはさておき。
コスト意識の中で「なんか変だよなあ」と思うことがあるんですよ。同じものを手に入れるのに、人によってコストが変わることじゃなくてね。それを「ずるい」と思う感覚が「なんか変だよなあ」なんです。だって、そんなの当たり前じゃないですか。育ってきた環境も、それまでの努力も、現在の状況も、みんな一人ひとり違うんだもの。例えば一所懸命に野菜を作っている農家だとして、隣の農家とも仲が良かったらさ、お互いに自分の野菜を分けっ子したりするわけじゃない?お互いに一所懸命にやってるのを見てるから。そういう人間関係も含めて「環境によってコストは変わる」なんだと思うんだけどね。
どういうわけか、それが納得できないということもあるんですよ。そのあたりが居心地が良くないんですよね。特にお金の話になるとですよ。

今、新型コロナウィルス感染症の影響でいろいろと我慢を強いられている。我慢をしていない人を見ると、攻撃してしまう人がいるのも、似たようなことなのかもしれないよ。自分はこれだけコストをかけているのに、他の人はそのコストをかけていないのが「ずるい」みたいなね。
ちゃんとルールを守って感染拡大の防止に繋がっているのなら良いじゃない。「会食は4人以下で」だけど、換気の整った定員20名の部屋で十分に距離をとった状態でとか、諸々の対策を講じた上で「会食が8名」だったら良さそうだけどね。それを許さないというのもどんなものかと思うんです。自分は我慢というコストを払っている、けれどもその人はお金というコストを払っている。ということでイーブンかな。

こんなこと書くとお叱りを受けるかもしれないけれどね。ぼくらは「コスト」に意識が強すぎる部分があるのかもしれないよ。だから「ずるい」っていう発想になっちゃうんだ。「ずるい」って思わなければ寛容になれると思うんだけどなあ。

  • この記事を書いた人

武藤太郎

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