エッセイみたいなもの

今日のエッセイ 春と春を感じるもの 2021年4月8日

今年は桜の時期が随分と早かったですね。昨年と一昨年の写真を見ていたら、ちょうど今日あたりが満開だったんだ。人間が定めた暦とは無関係に自然は自然のタイミングで季節が移ろいゆくんだと、妙に哲学的な気分になる。まあ、桜を見たからというよりも季節の変わり目になると、そんな感情が湧いてくる。つまりは年に4回あるんだけどね。

面白いなあと。勝手に思っているんだけど。季節ってさ、そのものを見ることが出来ないよね。「春」という実態そのものを見ることが出来ない。春になると起きる現象をみて「春が来たんだなあ」というようなことを感じるわけだ。桜が咲く、つくしが出る、たんぽぽが咲く、筍が生える、といった一つ一つの現象をみて「春」というものをぼくたちに感じさせる。というようなことを考えているとなんだか不思議な心持ちになってくる。
「山」だってそうだ。土とか、石、草、木、といった一つ一つの集合でしか無いのに、ぼくらは土の塊とは言わずに「山」だと認識しているんだよね。じゃあ、僕ら人間は?と考え出すと頭の中がグルグルしてくるんだよ。グルグルしてきたところで「ははあ、人間の認識ってこういうものなのか」と、なんとなく発見したような気になって終わりにするんだけどさ。なにも発見なんてしてないしわかってもいない。ぼくはそれで良いと思っちゃってるんだけどね。

さっきの、春の話なんだけど。今朝、ヨモギとセリを摘みに裏山に行ったのね。そしたら、数日前まで群生していたはずのセリが見当たらないんだ。あんなに生えていたのに、と思って近づいてみるとしっかりとセリはそこにあった。数日前はセリだけの群れだったんだけど、セリの間からたくさんの他の草花が伸びていたから見つけにくくなっていただけのことだったのよ。こういうのもさ。面白いよね。セリそのものがちゃんとあるのに、なんだか主役が交代したみたいに感じる。それもまたぼくの認識でしか無いんだよ。

毎度こんなことを考えたり感じたりするわけじゃない。けれど、どうも季節の変わり目になると同じことを感じるんだよね。というような話を前に友人にしたことがあるんだけど、微妙な反応だったからそれ以来はあまりしないようにしている。お坊さんに話したらもっと深いところまで連れて行ってくれるんだろうか。機会があったら尋ねてみようかな。

日本料理では、季節感を大切にしています。「春」が引き起こす現象の一部を切り取って、食べ物として演出していくんだね。料理もまた認識のひとつで食材の集合体。春を作っている素材と料理を作っている素材を組み合わせて「春の料理」になる。そうして、それがまた「春を感じる素材」として人に届けられていく。

ロジックだけで考えると難しくなる感じがするけれどね。
こういう文化が、なんとも風情のあるものだなあと良い心持ちになるのです。

  • この記事を書いた人

武藤太郎

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