エッセイみたいなもの

今日のエッセイ お茶摘みの音 2021年4月16日

今週、午前中はだいたいお茶畑にいます。なんと言ってもお茶の収穫時期は今しかないから。一年分を確保しなくちゃならない。それは、お茶業界の人たちはみんなそうなんですよね。掛茶料理むとうはお茶屋さんではないですけど、お茶料理のご注文も多いからやっぱり一年分の収穫をしています。特に、手摘みだからね。時間がかかります。

さて、これだけ長い時間の作業をしていると、なんとなく暇というか。間が持たなくなりそうだ。実際、普段の作業だと音楽やラジオを聞きながらという人もいるよね。ぼくも魚をおろしたり、延々と大根の桂剥きをしたりといった作業をしているときは、イヤホンをつけてラジオを聞いていることが多いかな。

これが、お茶摘みの時はそういうことをしないでいられるんだよね。なんでだろう。お茶摘み中のBGMは鳥の鳴き声や風の音、お互いの作業する音で良い感じなんだよ。そういうのがBGMとして成立している感じがする。
ランダムに流れるそれは、雑音のようでいて一定のゆらぎのようなリズムがある。
というとちょっと詩的な表現だけれど、自然の中にいるとそういうことを感じるのだから不思議だ。

まるで誰も気にしていないような、何気ない音。だけど、現代社会の、特にまちにいると聞くことのない音。当たり前だったけれど、いつの間にか当たり前じゃなくなっていった音。
そう考えていくと、都会に住んでいる頃周りに溢れていた音はずいぶんと人工的だったんだろうなあ。それが悪いというわけじゃなくて、人工的な音がすごく多かったと思う。田舎に住んでいる僕らには当たり前の音なんだけど、それでもやっぱり車の音や音楽がたくさん聞こえてくる。茶畑のある山に入ると、なんだか人工音がスゴく遠くに感じられるということもあるのかもね。その分だけ自然の音に溶け込んでいけるのが気持ちがいい。

あんまりゆったりと時間が流れるもんだから、ついつい調子に乗って長時間作業をしてしまう。気がついた時にはどっと疲れが出る。この辺は人間の限界なのかもね。疲れる前に自然に体を休めているのが、自然の動物たちなんだろうし。ああ、自然自然と違う文脈で「自然」という言葉が使われているのも、なんとも不思議だ。

今日はどうということのない話です。
ただただ、お茶摘みを通して自然の中にいるというだけで、なんとなく哲学的になったような、詩的になったような錯覚を起こす。というのが、一過性だけれど心地いい。
ただそれだけのことなんです。

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武藤太郎

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