料理は遊びだということを何度か書いたことがあります。じゃあ、遊びってなんだろうというのが今日の話。というのも、大人になるにつれて「遊ぶ」がわからなくなるんだよね。そういう感覚ない?
2歳の娘がいて「父ちゃん遊ぼ」と言ってくる。ぼくも一緒になって遊ぶんだけどさ。同じ感覚で遊ぶのが難しいんだよ。なんだか、効率の良さとかルールだとかが体に染み付いてしまっていて、うまく遊べない感じがするのね。
実際に大人に「積み木」を渡して「遊んでごらん」と言っても、子供のように無邪気に遊べる人は少ないんじゃないかとすら思う。もちろん、きれいに並べることも出来るし、上手に高く積み上げることも出来る。で、当然2歳児に比べたら圧倒的に上手なもんだから「父ちゃんスゴイ」とは言われるだろうね。
でもさ。でも、なんだよ。
ちゃんと遊べるのかな。
子供と同じ感性ではないから、楽しいと感じるポイントは違う。それはしょうがないしそれで良い。だけど、大人だって「積み木で楽しく遊ぶ」が出来ないわけじゃないと思うんだ。なのにどうやったら「楽しく遊ぶ」ことが出来るのかわからないじゃない。
最近は、仕事を中断してでも子供と遊ぶ時間を作っている。家族サービスでもあるし、ぼくが娘と一緒にいたいからに他ならないのだけど、その中で遊びというものを思い出す訓練にもなっている。
「遊び」には、どうやらルールが無くちゃいけないみたいだよ。何にもないと面白くならない。ただ、そのルールはその場で創り出しているよね。予めルールの決まっているゲームで遊ぶこともあるけど、やっぱり子供の遊びってそういうのが多い。遊んでいる最中に「これはこうすることにしよう」って、決めていくよね。ルールを作り出すってことは、ゲームを作り出すってことでもある。と思う。
あと「遊び」は仮想空間を創り出しているというのもあるね。オママゴトや人形遊びもそうだし、車の模型を動かして遊ぶのもそうだ。現実のじぶんは脇に置いといて、空想空間を創り出してそのなかで遊んでいる。くまのぬいぐるみであることは紛れもない事実。だけど、娘の中ではその瞬間違うなにかに見立てて楽しんでいたりする。人差し指と中指でテーブルの上を歩いて見せて、それがもう指じゃなくて「誰か」になって見えてるとか。
遊びってなんだろう。なんてことを、こんなふうに色々と思考を巡らせていることがナンセンスだなあ。という気持ちがしてくるね。心のままに遊べばいいじゃん、てね。だけど、言葉で表現するというルールの中で想像を働かせるという意味では、この文章自体も遊びなんだよ。
というような感覚を持ちながら料理をしているのかな。