エッセイみたいなもの

今日のエッセイ まちづくりという幻想からの一歩 2021年5月15日

「まちづくり」では、「俺は聞いてないおじさん(おばさん)」がよく登場します。という話を聞いたことがありますか。実にどこのまちにも必ず現れるんだよね。もしかしたら人の性で「何かひとこと言いたい」というのがあるのかもしれないね。

きっと会社の中にそういうことってあるんだけど、それは実際に利害関係にある人が言うことが多いかな。聞いていないから準備が間に合わない、部署の不利益になるとか。
ただ、まちづくりの場合は「全く利害関係のない人」が「俺は聞いていない」という発言をすることが、しばしばあるんだよね。なんだろう。不思議だなあ。まあ別に良いんだけど。困っちゃうは、見当違いな指摘をする人がその中に混じっていて、割と発言力の強い人だったりするんですよ。もしかしたら読んでいる人の中にも経験したことがある人がいるかも知れないですね。

何度となくそういう場面を見てきたんだけれどね。発言力が強かったりするものだから、場合によっては「見当違いな指摘」を「受け入れ」てしまうことがある。もうそうすると、施策自体がなんだかわからなくなっちゃって、求めている結果に向かって進まない。それが行政の中だったりすると、税金の無駄遣いとか言われちゃうわけ。まちづくりをボランティアでやっている人たちは、もう嫌んなっちゃうよね。今、中学生や高校生がいろんなチャレンジしているんだけど、そういう情熱に思いっきり水を掛けることになる。

だからこそ、今やっているチャレンジは「どんな効果を求めているのか」を明確にしておく必要がある。明確にというのは「言語化」だ。

例えば、企業がある製品の「売上を伸ばす」ために「広告戦略」を考えて「資本を投下」するとしましょう。でもそれを行ったところで、直接的には「製造コストの削減」にならないよね。当たり前じゃん、と思うかもしれないけれど、なぜか「まちづくり」というフィールドではこういう指摘があるんだよ。お茶のセールスを伸ばすための施策を実施すると、「そんなんじゃダメだ。それじゃミカンの土地問題は解決しない」って。不思議でしょ。それは、また別でやったらいいじゃない。

ということを、先日の中学生向けの講話で話してきました。真っ向から対立する必要はないんだけど、しっかりと「この取組は○○○の為に集中しています」と明言することが出来るようにはしておきたいよね。たいていの大人は、中学生が真剣にその話をしてくれたら攻撃できなくなるもん。

自分たちの考えた情熱を曲げないためにちゃんと言語化しておく。そうすると、他者に理解を求めることが出来るだけじゃなくて、実施する自分たちもブレずに進むことが出来るから。
そして、ひとつの施策にたくさんの目的を持たせない。副産物はあるけれど、それをメインストリームである主旨に持ち込まない。ということも大切かもなあ。理由は同じで、施策自体がなんだかわからなくなっちゃうから。副産物のほうの成果を大きくしたら、スピンオフして別で動くのが良いよ。そのほうが出口も決めやすいから。

今日は、講話を聞いてくれた生徒さんが見返せるように、という記録です。

  • この記事を書いた人

武藤太郎

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