エッセイみたいなもの

今日のエッセイ やっぱり日本人は「ご飯が好き」なんだよ。 2021年6月15日

「ご飯文化」の近代史について、いろいろと書き出していたら1週間ずっと「米」の話を書くことになっちゃった。意外と知らないことあったんじゃない?給食でご飯が禁止されていたとか。お米を自由に流通させると刑事罰があったとか。(平成7年まで)

世界でも変わった日本人の食文化として、最近海外から注目されていることがある。例えばこんな会話に心当たりない?「今日の昼ごはん何にしよっか」「ラーメンは?」「それ、昨日食べたよ。」「じゃあ餃子は?」「中華かぶりするから、他にしよう」
こんな会話、日本以外では成立しないんだって。毎食毎日、いろんな食文化を味わう超グルメな国民性。そんなふうに見えるんだ。世界中の大抵の人は、朝昼なんてだいたい同じもの食べてるよ。特に主食をコロコロ変えない。変わらないから「主食」なんだもん。
半世紀以上前の日本だって、主食をそんなにコロコロと変えたりはしなかったよね。そもそも選択肢が少ないというのもあるんだけど。おかずが違うだけで、ご飯はほぼ毎食食べていた。でしょ。

「国家としての思惑」はつまりは、政治経済の都合だったね。「働き方の変化」は、社会構造自体が変化していったことでニーズが変わっていったという話をした。「食品加工技術」が進化することで、社会構造が求めているニーズに対応して、変化を加速させた。そして、その中心を担った「団塊の世代」が、社会全体や次世代に新しい食文化を常識にアップデートしていった。

これが、おおざっぱな日本人の米離れの流れかな。どこの誰が悪いとか、きっかけだったとか言うのはナンセンスだと思う。こういう話をすると「国の政策が悪い」というようなことを言う人もいるし、実際そういう語り口の記事も読んだ。けど、そういうこと言っちゃうと、なんにもならないよね。国が「日本の食文化なんて消えてなくなれ」なんて思っていたわけないしさ。国民の食生活をなんとか安定させようと努力してきたし、諸外国との関係を築いていこうとしてたんだよね。それが礎になって、今の国際関係が出来ているということを考えると功績は大きかったかもよ。

和食以外の料理がインスタント化に抵抗がなかったというのは、面白い発見だったよね。それも、和食愛、もっと言うとお米愛があるからこそ、インスタント化を許せない感覚があるっぽい。そういう日本人らしさが、結果として洋食文化の拡大を助長したっていうのも興味深い流れだと思ったよ。そして、その文化の中から、また次の世代が「このインスタント技術って、和食でも使えるのでは?」と展開を始めるんだ。
どの世界でも、こういうことって起きるよね。何かのこだわりとか事情があって、次のステップに進まないでとどまることを選んだんだけど、時間の経過とともにその事情を知らない世代が中心を担い始めるときに、全ての事情をぶっ壊していく。

料理屋をしていると、世代間の不思議な変遷を感じることがあるんだ。戦前生まれの方々の慎ましくも上品な食事スタイルから、質よりも量や華やかさを重視した世代、その残り香を受けつつ洋食文化を取り入れた世代、そして従来の日本文化の美しさを楽しむ世代。世界史で感じるような振り子のようなゆらぎは、社会や政治だけじゃなくて食文化の中でも明確にあるんだなあ。

今後、日本人は「ご飯」「おかず」をどう扱っていくんだろうね。個人的には、これをきっかけに「インスタントじゃない食事の時間」が見直されると良いと思うよ。なんでもインスタントにしていくと、人間の心に負荷がかかり続けるということは、医学的にもはっきりしていることだから。だから、日常にある食事の時間の一部でも「手をかけて」「ゆっくりと」「没頭する」時間にあてたらいいと思う。そういうところを「豊かな時間」と感じられる土壌は僕らの中にあるはずだからね。

今日も読んでくれてありがとうございます。お米文化の話をしていたら、存外に「ご飯文化の近代史」になっちゃったね。これも日本人として知っておいた方が良いことかもしれないので、気になったらまた調べてみることにするよ。ということで、次回からはまた違う話になります。

  • この記事を書いた人

武藤太郎

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