本を読むことで思考力が高まると思っています。と言って、どう感じるのかな。ちょっと極端な表現かもしれないけれど、たくさんの「書籍」を読むことは、ぼくら人間の思考を鍛えるという視点でかなり有効だとぼくは考えています。
まず、前提ね。
そもそも、言葉には大きく分けて2種類ある。「生活のための言語」と「学習のための言語」ね。そして、思考に使われるのは「学習のための言語」ということが重要なポイントになる。
順を追って説明してみるね。あくまでもぼくの個人的な解釈だから、これが正解かどうかは知らないよ。ということを最初に断っておきます。
「生活言語」は、いわゆる日常会話に使っている言葉。子供がお父さんお母さんと会話する時に使っているのもこれだし、友達とおしゃべりするのもこれだ。「生活言語」は主に「意思の疎通」に使用している。感情を伝えたり、意見を伝えたりするのにはとても有効だ。その際は、特に複雑な単語を駆使する必要もなくて、複雑な感情を表現するにも「言い回し」を工夫するだけで事足りる。人間関係によっても、言葉が表す意味すら変化するというのが「生活言語」の特性でもあるから、工夫自体が必要ないという場面さえあり得る。
「学習言語」というのは、そもそも使用目的が違う気がするんだ。主に文語体で表現されているし、一つ一つの単語の粒度も細かい。日常では滅多に使わないような単語も使用されるのは、短く正確な形容を求められているからだろう。そのおかげで、複雑な感情や論理を、仔細にかつ的確に表現することが可能になる。というのは、写真で言うと解像度が高い表現がなされているということだ。12色の色鉛筆よりも、120色の色鉛筆のほうが表現力が豊かになるようなイメージかな。
さらに、文書で記載する場合は論理的な語順が求められる。このエッセイ自体も、実はそうなんだよね。読みやすくするために口語表現を取り入れてはいるけれど、それでも説明の順番なんかは考えて書いているつもりだよ。だって、おしゃべりのときのように話がアチコチに跳んでしまったらわかりにくいでしょ。
そしてここで大切なのが、ぼくら人間は「考え事をする時に必ず言葉を使っている」ということだ。どこかの書籍で「内言」と「外言」と表現されているのを読んだことがある。「内言」というのは、声や文字に表さない心の中の声のことっていうのがぼくの理解の仕方だけど、合ってるかな。とにかく、考え事をする時は映像じゃなくて「内言」で行っている。それを整理して、さらに思考を深めたい時に「外言」を使うんだけど、大体の場合は「書く」という動作で使用するよね。
だから、「思考する時は書きなさい」と言われるんだろうと思うんだよ。
この3つを重ねると、「学習言語」を「内言」「外言」によって繋げあわせて「思考を深める」ということを行っているんじゃないかという結論になるんだよね。ぼくにはそう見えるんだ。
だけど、この「学習言語」って、習得するのが大変なの。普段使わない単語を学習しなくちゃいけないし、著者の言いたいことを読み解くのに論理的思考を求められるし、文章から具体的な場面を想像もしなくちゃいけないじゃない。これを体得するには、繰り返し繰り返し本を読むしかないような気がするんだよね。始めのうちはめちゃくちゃ大変だけれど、慣れてきたらスラスラと読めるようになるんじゃないかな。
ぼくにとっては、時間がかかる書籍でもスラスラと読み解いていく人もいるんだから。恩師の姿を見ていると、読書量で「読む力」が培われているみたいだ。実際、「君らとは読んできた書籍の数が違う」と言っているからね。
「思考」に必要な「学習言語」を「読書」で養う。
この概念自体、決して新しいものじゃないよね。ずっと昔の書籍にあって、ぼくの人生のどこかでそれに触れたことがあるんだと思う。もしかしたら、概念を集積した形ではなかったかもしれないけれど、その断片が脳内に蓄積されていって生まれたものかもね。
おしゃべりはとても流暢だけれど勉強はいまいち伸びないという人がいる。学生を見ているとよくあることだよね。ま、逆のパターンもあるけどさ。
今日も読んでくれてありがとうございます。社会人になってからしばらくは、本を読む数が減っていたんだけど、最近になってたくさん読むようになりました。しっかり学習言語を学びます。