エッセイみたいなもの

今日のエッセイ 「自分の意見」を持つことの本当の意味 2021年6月19日

日本には「沈黙は金、雄弁は銀」という言葉があります。だけど、これってホントかな?口は災いのもとというのと同じような意味合いで使われているのかもしれないけれど、ちゃんと意思を伝えるということは大切だと思うんだよなあ。

意思を伝えるというのは、考えを伝えるということ。だから、ただ欲求を言葉にして発するのとは違う意味でね。うっかりすると、「他人の意見を自分の意見のように話す」ことがある。インターネット上でたくさんの「意見・考え」が発信されているのだけれど、そのうちどのくらいが「自分で考えた意見」なのだろう。発信している本人さえ気が付かないうちに、他人の意見をそのまま取り入れてしまうことだってあるんだよね。無意識でね。

自分で考える。そこから意見が生まれる。そうすると、人それぞれに違った意見が発生する。それをお互いに話し合っていく。相手を否定するためだけの議論ではなくて、お互いの意見をブラッシュアップするための議論ね。たどり着く先は、福沢諭吉の言う「独立自尊」と「人間交際」なんだろうか。

福沢諭吉を持ち出したので、ついでに「自分で考える」ということを「学問のすゝめ」から抽出してみる。彼は「観察」「推理」「読書」「議論」「演説」の5つの段階で解説しているよね。
まず最初に「観察」すること。目の前にある事象を、色眼鏡なしでしっかりと観察する。現代ビジネス風にいえば「ファクト認識」とか「事実確認」かな。これは間違いないね。とても大切だ。
次が「推理」。観察した事実を並べて、はじめて論理的な推理をすることが出来ると。ここが「自分で考える」部分なんだろうね。

同じ作物なのに、畑によって出来が違う。という事実に対して、何が違いを生み出しているかを推理するためにそれぞれの畑をつぶさに観察する。日当たりが違うだとか、土の匂いや感触が違うだとか、花の色が違うだとか、細かく事実を観察するんだよね。そのうちに、出来が良い畑の共通点を見出すことが出来る。一つじゃなくていくつも。そこを起点に「出来の良し悪しの理由は何か」という推理を展開する。二宮尊徳の天道の考え方と同じかもね。

それから「読書」。これは「先人の知恵を借りる」ことになるのかしら。人類の集合知を利用することで、自分の推理を検証してみるような感じがするね。補強することになるかもしれないし、全く違う結論が記されているかもしれない。それをもって、もう一度観察と推理を繰り返す。
こうやって、改めて書き出してみると「観察」と「推理」が、実はスゴく大切な過程だと思い知らされるよね。ここを通らずに「読書」からスタートすると、書物を書き残した人の意見と知見に立脚したものしか生まれてこないもん。大なり小なり、人の意見ということになっちゃうね。もちろん、分野によっては書物から「事実を抽出」するしかないということも往々にしてある。その場合は、読む方も「正しく事実のみを抽出」していくスキルが求められるよね。

危ないなあ、と思うのは「読書」をスタートにして発信しているひとの文書を「読書」して、それに立脚した発信があるということ。伝言ゲームのようにして、一人の人の「考え」が少しずつ変化をしながら、あたかもそれぞれの人の「個人の考え」とでも言わんばかりに広がっていく。これで世論形成が行われてしまうと、集団としてはとても危ういよ。このあたりが「独立自尊」を説いている所以なんだろうね。

さっきも書いたけれど、自分の言葉で整理してみると理解が深まるね。ここまでの内容自体が「読書」から得ているものだけれど、現実に起きている現象を「観察」したところからスタートしたのが良かったね。そして、観察と推理の過程で「学問のすゝめ」の存在を思い出すことが出来たおかげで結びつけて考えることもできた。まさに「学問のすゝめ」というタイトルはお見事としか言いようがない。だって、150年も前に書かれた通りの思考手順を辿ってしまっているじゃないか。

今日も読んでくれてありがとうございます。最近こういうことも書いてしまっているのだけれど、だれか面白いと思ってくれる人がいるのかな。ぼくの為に書いている側面もあるので、勝手に書くんだけどね。あ、冒頭の「沈黙と雄弁」の話にたどりつかなかったわ。続きはまた今度。

  • この記事を書いた人

武藤太郎

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