エッセイみたいなもの

今日のエッセイ 脳のスペックを超えた認知の対処として生まれたもの 2021年7月18日

認知負荷を下げる行為がぼくらの世界を縁取りしている。という言い方をするととてもアカデミックなようで、ちょっと賢そうな雰囲気を醸し出せるかな。そんなことはどうでもいいんだけど。

ぼくら人間って、なんのかんのといろんなことを考えずにはいられないじゃない?それが重要なことであってもショボいことであってもさ。しかも、けっこう体力や精神力を消費するもんね。それを避けたいという衝動というか、本能みたいなものが、人類にはデフォルトで備わっているのでは?という話です。

基本的に「考える」という行為は面倒なんだよね。それでいて「楽しい」行為でもある。なんだけど「考えることが楽しい」のは、考える内容が軽い負荷であるときだと思う。スポーツやゲームと一緒でさ。自分のレベルよりもちょっと上、くらいのチャレンジは楽しいと感じると思うんだ。クリアしたときには達成感もあるしね。これがだいぶ上のレベルになると、もうしんどいよね。気合の入った人はいけるかもしれないけど、そうじゃない人はしんどい。逆にカンタンすぎてもつまらないだろうけど。

考えるのがめっちゃしんどいこと、それがどうでもいいことだったら放置しておけば済む。だけど、結構重要なことだったら、どうする?

未解決のまま解決できないものと認識した上で自分なりに思考を続ける。ということも出来る。というかソリューションではなくてセンスメイキングみたいなプロセスの中に置いて、解釈を積み重ねることも出来る。なんだけれど、どうにもスッキリしない感覚になるよね。とにかく宙ぶらりんは気持ち悪いってこと。

だから、「誰かが出してくれた答え」に乗っかるのが楽ちんだと思わない?

これ、宗教もそういうことなんだと思う。「死んだらどうなる?」「人間ってなに?」「幸せって何?」こういう問いに答えを出そうとするのって、めちゃくちゃしんどい。特に古代だったら、そんなこと考えるより生き抜くために考えることが多いわけだから、出来ればやりたくないわけ。でもさ、現代よりもずっと死が身近にあったわけだし、富の集積が始まった頃からは人生や幸福という概念はとても身近なものだったわけだ。だから、賢そうな誰かが出してくれた答えに乗っかることにする。

世界を認知するための負荷を下げる。そういう行為かもなあと感じるんだよね。と宗教のことを語ると、叱られてしまうかもしれないけど。まあ、そういう捉え方も出来るかもね、というくらいのもんです。

別に宗教を論じたいわけじゃなくてね。思考の回避行動が、どこまでなら実生活で許容されるかという話なんだ。許容されるというのはちょっと違うな。自分の主観的判断として許容するか、かな。

例えば、1+1=2は自分で考え出したものじゃないよね。そもそも、1は1で揺らがないという前提を作ってるでしょ。これも「1」とはなんだ?とかやりだすと、とても生活していくのが不便でならないよね。だからもう、これは信じることで良しとしちゃう。

車はアクセルが右側にあって、左にブレーキがあって、アクセルを踏めば走るし・・・。なんてことも、もう考えない。そういうもんだってことにする。それを元にして操作を覚えるほうが良いよね。

じゃあさ、車の動力は電気モーターに置き換えたほうが環境に優しい、はどうする?

ホントに思考回避しちゃって良いのだろうか。

このお店は評価点数が高いから美味しい。と、実際に食べてみても何のバイアスもかからずに自分でちゃんと判断しているのだろうか。とかね。

○○さんがそう言っているんだから、だから正しいことにする。

とかさ。

よくあることだけど。これって、どこまで大丈夫なのかな。どこで線引をするかという判断は、人それぞれが行っていて、それが個性を形成するもののひとつになっているのかもしれないね。と思った次第です。

今日も読んでくれてありがとうございます。久々に思考の迷宮に誘い込むようなエッセイになってしまったね。線引するかの判断を誰かに委ねる人もいるのかもしれない。これ無限ループ?個人的には、この宙ぶらりん状態を維持しながら、時々思い出して思考遊びをしてみるくらいの感覚が好きです。

  • この記事を書いた人

武藤太郎

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