記念日は、日常のいち日であって特別な日であるかどうかは人の心持ち次第である。と誰かが言っていたらしいのだけど、まあそうなのだろう。なんだか冷めた物言いをする人だな。
確かに、結婚記念日にしても誕生日にしても何も気に留めなければ「いつもの日」である。もし一人も、自分も周囲の人もすべての人が気にしなければ、ホントになんでも無い日になりそうだ。なんだか、スゴイことに気がついてしまった気になっているのは、ぼくだけだろうか。
つまりこうだ。
人の気持ちと行動が、その一日を「特別な日」にしている。
日本には「ハレ」と「ケ」の概念があるけれど、「ハレ」の日を「ハレ」にしているのは人間の思いだけだったということになる。神社のお祭りは神様とのつながりがあるから、神様が決めたことになっているけれど。それさえも、だれもお祭りをしなかったら「ハレ」にはならない。お祭りは「ハレ」を表現することでもあるし、「ハレ」であることを認知することでもあるし、「ハレ」を肌身で感じることでもある。
唯識論みたいな哲学的概念になりそうなので、これ以上すすめるのはちょっとコワイ気もしてきた。あ、いま書きながら思考しているから何処にたどり着くのかわからないんだよね、自分でも。いつものことだけどさ。
儀式儀礼ってあるじゃない。お正月に初詣に行くのもそうだし、結納とか結婚式もそうだし、誕生日にケーキを食べるのだってそうだ。こうやって適当に書き出して眺めるだけでも、随分と簡略化されてしまったりやらなくなってしまいそうなモノもあるよね。実際、結納はかなり減っていて簡略化されている。
儀式、儀礼、セレモニー、なんと呼んでもいいけれど「形式」って、意外と大事なことなのじゃないかと思うのだ。神事に「お祭り」を実施することで、村の人達全員が「ハレ」を「体感」出来る。神事だけで終わらせるのではなく、お祭りにすることで特別な日にすることが出来る。
特別な日「ハレ」は、生活に必要なものなのだろうか。そういう疑問が湧いてきてしまったのだけど、直感的に「必要だ」と思っている。何のロジックも無いのだけど、感性が必要だと感じているのだ。どういうことだろう。「ハレ」の時は感情が高揚するから、それが良いのかも知れない。お祝い事だけじゃなくて法事でもよいのだけど、人間の感情を高めたり慰め合ったりしているのが「ハレ」だ。
ああ、そうだ。「ハレ」の日であっても、一人じゃ「ハレ」にならないんだ。そういうことか。複数人が集って、感情を共鳴させる行為なのかもしれない、という気がしてきたぞ。お祭りで楽しい感情を膨れ上げたり、初詣で心新たな気分を共鳴させたり、結納でめでたい感情を確認し合ったり、葬儀で悲しみを慰めあって区切りをつけたり、そういう行為は一人では出来そうもない。
ということは、だから、誕生日などはみんな「おめでとう」と言い合うのが良いのだ。プレゼントがあればそれに越したことはないだろうけれど、言葉だけでも沢山の人が「おめでとう」と言うだけで、きっとその日は「ハレ」の日になる。儀式的でも良いからプレゼントを贈り、ケーキを食べる。それで「ハレ」の日の完成だ。そうすることで、「お祭りを作る」ことになるんじゃないかな。
今日も読んでくれてありがとうございます。今日は娘の17歳の誕生日です。そのせいでこんなことを書いてしまいました。彼女と彼女の周りの人が、今日を特別な日にしてくれると信じて「誕生日おめでとう」