エッセイみたいなもの

今日のエッセイ 東京オリンピック開会式 2021年7月24日

オリンピック開会式は見ましたか?開会式が行われたせいもあってか、町は閑散としています。日本で開催されることなんて、一生のうちに何度もあることじゃないからね。むしろ、そちらに関心がある方が嬉しいと思っている。ぼくも見たよ。
ところで、この開会式にはいろんな声が上がっているのだそうだ。試しに、ツイッターやフェイスブックなどのSNSを覗いてみると、たしかに様々な感想が上がっている。

ぼくの感想などは、どうでも良いのだけど。ちょっと思うところがあったのは事実。同時通訳をしてくれるとか、選手入場で解説をしてくれるのはありがたい。のだけど、序盤の演出のところでの実況解説は要らないんじゃないかなあ。どうでしょう?

SNSを見ると、シュールだとか意味がないだとか、いろんな意見が飛び交っているのだけど。ダンスやミュージカルのような演出は「アート」だ。反論もあるかも知れないけれど、あれはどう見ても「アート」にしか見えない。それをどう感じ取るかは受け手の自由なのだけれど、実況は要らないと思ってしまったのだ。
映画や演劇を鑑賞する時、それが個々人にとってわかりやすいかどうかは関係なくて、見た人が勝手に自由に見て感じるものがあれば良いと思う。そう考えると、実況や解説は邪魔に感じてしまう。映画を見ている時に、知らない人が横で解説を始めたら「ちょっと、静かにしもらえますか?」と言いたくなるんだよね。ぼくは、開会式にも同じことを感じてしまった。
まあ、ぼくの勝手な持論なので「こうすべきだ」という程のことではないのだけど。

どんな演出であれ、それを作り出した人たちには意図があって、感性があって、その発露としての形だ。それをどう楽しむかは見る人の一人ひとりに委ねられている。「思想は口にした瞬間に死ぬ。ただ、その思想は他者に受け取られた時に新たな命を与えられる」と言ったのは、アルトゥル・ショーペンハウアーだったかな。ごめん、記憶があやふやだ。誰が言ったかよりも、この考え方が素敵だなと思って、なんとなく覚えているだけだ。
こういうつもりで発信した。というのは発信者の意図だけれど、それは必ずと行っていいほど誤読される。100%の一致が難しいのは、受信者の人生経験などの背景が発信者のそれとは確実に違うからだ。だから、発信者の「こういうつもり」は、その時点で一度死ぬということになる。だけど、受信者は受信者なりの理解で解釈することになるから、受信者の中で新しい思想となって塗り替えられていくことになる。ショーペンハウアーがどういうつもりで書いた言葉なのかは知らないけれど、ぼくの解釈はそういうことだ。

これを是とするか否とするか。良いんじゃないかな。誤読ウェルカムだよ。発信者が思いも寄らないことが起こるから面白いんだと思うよ。人それぞれに差異があって、その差異を明らかにしながら楽しめるのが「アート」の領域なんだということで、愉しめば良いのだと。
もっと言ってしまえば、コミュニケーションとはズレがあるものだ。と前提して、そのズレから何かが生まれるかもしれないと期待しておく。そのズレを楽しむのが良いんじゃないかな。アートなんてそんな感覚で良いのだと思う。

拙いながら、若い頃は音楽を楽しんでいた時期があって、詩も書いたし曲も書いた。ライブなどで演奏もした。ぼくの思惑は思惑として、受け手は自由に感じ取るわけだ。それが面白かった。だから、そこに余計な実況を入れられると、誤読の自由を阻害されている気がしてしまうのだ。

開会式のアートの部分なんかは、自由に演出して自由に感じたら良い。そんな感じかな。ミーシャの国歌独唱も、大工姿も、提灯もダンスも、ぼくは素敵だなと思ったよ。見てない人にはナンノコッチャか。「オリンピック始まったぞー!」という高揚感に包まれたもん。

今日も読んでくれてありがとうございます。実用かつアートのハザマにいる料理の世界観は、どんな演出が良いのだろうね。求められたら解説はするけれど、あんまり喋りすぎないほうが純粋に料理を楽しめるかもしれない。一方で、語り手もアートの一部だとすれば喋りもエンターテイメントだね。

  • この記事を書いた人

武藤太郎

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