エッセイみたいなもの

今日のエッセイ アーティストの生き様 2021年7月29日

何もないところから、何かが生まれる。そんなことをアーティストはやっていると言われているけれど、きっと「何もないところ」では無いのだろうと思う。ギターを手に取り、音を紡ぎ出す。そこに声を乗せてメロディーにしていく。そういう作業は、はたから見れば何もないところから音を拾い出していくような姿に見えるかも知れない。

一人の人が、たくさんの人とふれあい、いくらかの時間で世界と絡み合い、そういった景色を「おれ」というフィルターを通して切り取って納めていく。心のなかに納められた無限とも思えるほどの感情や景色や、そういったものの連なりが、ギターの音色に導かれてポツリポツリと音になっていく。

聞き手を意識した音の集合体であっても、それは「歌」として世に流れていく。数学的な思考法で音を紡ぎ合わせることで、聞き手にとって耳障りの良い歌を紡ぐことも可能である。

だけど、それを良しとしない人たちも確実に存在している。

彼らは自身の中に溜め込んだ「情景」を音に乗せていく。情景の有り様を、情景の移ろいを、その美しさや醜さや儚さを、そして情景を持った状態で見る現在を。

テレビの中で語られる有名人の話は、イマイチピンとこないけれど、ぼくの近くにもそういう「生き様」をまるごと音に乗せてしまう男がいた。近い存在だからこそ、彼の情景を歌から聞き取ることが出来るのかも知れない。それはそれで、良い。べつに乗せたものを乗せた通りの情景で伝わらなくても良いだろうし。

詩も歌もその他諸々の全て、聞いた人が勝手に解釈すれば良いんだよ。

まるで生理現象のように、歌を歌わずにはいられない発露。とことん行けるところまで突き詰めずにはいられない衝動。

「生き急いだとしても仕方ないんだよ、行けるとこまで行こう」

彼は、そう歌に紡いだ。

「朝が来るonMyRoad 喜びも 悲しみも、全て飲み込んで」

しょーがねーな。また、朝が来るんだからさ。全部まるのみして、進んでいくしか無いのだろうよ。悲しみの原因になりやがって、バカヤロウ。

すみません。今日の話は、全然意味がわからなくなっちゃいました。

また、明日からいつものエッセイに戻ります。

  • この記事を書いた人

武藤太郎

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