エッセイみたいなもの

今日のエッセイ オリンピックの価値 2021年7月30日

オリンピックが始まる前まではいろんな意見が出ました。開催すべきかどうか、開催するなら外食産業も開放すべきだとか、他のイベントもOKにすべきとか。個人的な意見としては、始まるまでは判断ができなくて「やるならやれば」くらいの気持ちでいた。どっちの意見もわかるような気がしていたからだ。

ところが、開会式を見てからははっきりと意見が定まった。オリンピックは今こそ開催したほうが良いのだろうと。こういうことを書くと、叱られるのかも知れないけどね。政治思想のようなものは、あまりこのエッセイには相応しくないような気がしていて。だけど、今回はちょっと思うところがあって書いてみることにした。

オリンピックの開会式を最初から最後まで見た人の中には同じことを感じているかも知れない。意欲に燃え、明るい笑顔で、スポーツを心から楽しみ、互いを尊重しあっている。選手たちの入場を見ていると、そんな風に感じた。国家間のゴタゴタはどうあれ、国立競技場に集った人たちは純粋にスポーツを楽しんでいる。
バッハさん、橋本聖子さんの挨拶の中で、ひたすら繰り返された言葉は「連帯」「融和」だった。言葉でも語られていたけれど、選手たちの振る舞いそのものがそれを体現しているようにすら感じたのだ。

現在、新型コロナウィルス感染症によるパンデミックが発生している。この状況下で、国と国の往来が著しく制限され、お互いが何を考えているのかわからず疑心暗鬼に陥る可能性すらあると思う。考えすぎなのかも知れないけれど、中世以降の世界史をざっと眺めれば似たような現象が見られるのだから、少々不安にもなるんだよね。ペストやスペイン風邪が流行った時、その後の世界がどんな挙動をしたのか。とね。
だからこそ、顔を突き合わせて「世界の連帯」を表現しておくことは意義のあることなんじゃないかと思うんだ。

もちろん、各国それぞれで発信をしても良いし、個人個人が同じ考えを表明し合ったとしても伝わることはたくさんあるだろう。だけど、世界中で約10億人もの人が見ることが出来るイベントはオリンピックをおいて他に存在していない。これだけの注目を浴びる開会セレモニーは他にない。オリンピックの観客動員数や視聴数を遥かに上回るサッカーワールドカップでさえ、開会式にこれだけの注目度はないのだ。それは、本大会に参加している国数が桁違いだからなのかな。

世界中が連帯してパンデミックを乗り越えよう。
綺麗事に聞こえるかも知れないし、なんとも抽象的なメッセージかもしれない。けれども、このメッセージを世界中に一斉配信することそのものに意味があるといえるんじゃないかな。だから、こんなこと言ったらそれこそ怒られると思うんだけど、外食産業の規制とか、他のイベントの規制とか、そういったものと同列に考えることは出来ないような気がする。それだけ、オリンピックは特別だと。ちょっと数字や論理も書いて、根拠じみたことを言ったけれど「オリンピックは特別」いや「別格」だと、直感的に思っちゃったんだ。

重要なメッセージを発信して、それを互いに確認し合うこと。それは、絵空事のようであっても重要なことだ。会社などの小さな組織であっても、時々は互いに気持ちを確認し合うことが必要なのだ。世界がいがみ合うのではなく、照れもせずに世界平和を願うメッセージ。これは、国家事業の枠を超えて、人類ひとりひとりが確認し合う事業なのではないだろうか。
今回のオリンピックは、こういう意味で本当に意義のある大会なんじゃないかな。

今日も読んでくれてありがとうございます。感性に訴えるアートの部分を象徴するイベント。リベラル・アーツが見直され始めた今だからこそ、オリンピックの価値をこんな角度で見つめてしまったよ。

  • この記事を書いた人

武藤太郎

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