エッセイみたいなもの

今日のエッセイ 日本は意外と柔軟な国だった。 2021年7月31日

日本はずーっと長いこと変わらないでいるような気がしているのは、ぼくら日本人の錯覚なのだろうか。不意にそんなことを思いました。何かの本で「マグナ・カルタ」という単語を久しぶりに見かけたのだけど、覚えていますか?学生時代に授業で登場したはずなんだけど、世界史だったかな。

マグナ・カルタ(大憲章とも)とはイギリス憲法の最も基本的な部分として、今も効力を持つ憲法である。この憲法が制定されたのが1215年6月19日。この時、王政が当たり前だった時代に「たとえ国王と言えども議会の承認なくして決議できない」ことが確立される。

これスゴイことじゃない?800年も前の憲法が今も現役なんだよね。日本で言ったら鎌倉時代。鎌倉時代の法令で有名なのは「御成敗式目(1232年)だけど、それが今でも現役で使用されているイメージ。そんなことある?という感覚でいたら、そういえば社会構造も同じことが言えるなと気がついた。ぼくら日本人にとっては当たり前だけれど、現代は武士もいないし貴族もいない。そういう身分制度はないよね。だけど、イギリスでは今でも貴族階級がちゃんと存在している。権威権力の構造は変わっているけれど、今でもある。これは、イギリスという国家文化が意図的に残そうとして残してきているのじゃないかと思うのだ。

では、われらが日本はどうだろう。武家支配の構造は江戸時代まで続くけれど、明治維新になると大変革をしてしまう。武士は廃絶されるし、神仏希釈であちこちのお寺は破壊されるし、新しいものを作るときに古いものを片っ端から捨て去ったように見える。それは、昭和のまちづくりにおいても同様で、古い町並みは無用とばかりに近代的な建物や道路に差し替えられた。こう見てみると、日本人は古いものを捨てているように見えるのだ。大胆にそしてあっさりと。
だけどさ。それでもぼくらの根底には「日本は通底して変わらないものが存在する」という感覚がしっかりある。この差分はどこからやってくるのかな。

ずーっと長い時間の中で、少しずつ新しいものを取り入れては魔改造して日本化させてしまうのは、日本人の特徴だと自覚しているよね。歴史の連続性とでも言うのかな。文明と呼ばれるものはドンドン差し替えられていて、漢字を大和言葉と融合させたり、中国の食を日本食に吸収したり、政治制度や社会制度を変革させていったりと目まぐるしく変化している。これは変化することに対してハードルが低いのだとも言えるのだろうか。変化のハードルが低い日本。なんだか違和感があるなあ。全くそんな気がしない。

どういうことだ?なにか根底に「変わっていないもの」があると、本能的に感じているような気もする。文明ではなくて文化という区別、それが良いのかわからないけど。根拠はないけれど、「表層のやり方くらい変えてしまっても、我々は変わらない」という自信のようなものを感じるんだ。ぼくだけかな。
歴史を見るとそう感じるというだけで、現代社会がどうかはまた別の話なんだけど。

あとね。新しいものを取り入れるときに、「置き換える」と「積み上げる」という2つのやり方があるように感じている。今までのシステムを捨てて全く新しいものに置き換えてしまうこと、これは日本史の中ではあまり起きていない。「解釈し直して積み上げる」ケースの方が多いかもしれない。柿本人麻呂が征夷大将軍になったときと、徳川家康が征夷大将軍になった頃では「征夷大将軍の定義は変わっていないのに、解釈が変容している」ということをとってもそうだろう。
例えるなら、古くなった家を更地にして立て直すのではなく、増改築を繰り返していく。時々は骨組みだけを残してリフォームする。そんなやり方。

今日も読んでくれてありがとうございます。根底が変わらない自信があるからこそ、変革に頓着しない姿勢は現代こそ再認識してもよいのかなあ。という決着になったけど、どうだろう。そういえば、「変わらない味を守るためには、常に変わり続ける努力をすることだ」と、数百年続く老舗の主人が言っていたのを思い出したよ。

  • この記事を書いた人

武藤太郎

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