近代言語学の父と呼ばれているスイス人、フェルディナン・ド・ソシュールという人がいます。ぼくは、別に言語学のプロでもなんでもないので、詳しいことは知らないのだけれど。ただ、ラングとパロールという概念がとても興味深いなと思ってね。
乱暴に説明すると、ラングは「社会的に運用されている言葉の規則」のことで、文法とか単語とか。パロールっていうのは「ラングを運用する」ことで、単純に「しゃべる」こと。かな。
面白いと思ったのは、ラングの違い。国?言語によって、存在する単語と存在しない単語があってさ。それが、その言語を使う人たちにとっては言い表せない場合もあったりするんだよね。英語を和訳する時に、どうにもピッタリはまる単語が存在しないということがある。そんなことだ。
例えば、魚。日本人だったら、どんなに魚が嫌いな人でも魚の名前を言えると思うんだよね。10種類くらいは行けるかな?だけど、中国人のほとんどの人は言えないんだって。
こんな笑い話がある。とある中国人の少年が堤防で魚釣をしていたところに、日本人の少年が近づいていってこう言った。「何を釣っているの?」「魚だよ」「それは分かってるよ。だから何を釣っているの?」「だから、魚だってば!」日本人の少年はアジなのかキスなのか、そういう魚の名前を聞いたんだよね。釣りをする人だったらわかると思うけれど、だいたい釣りをするときは獲物を狙って、その魚に合った仕掛けを用意するもんだ。だけど、中国人の少年は違った。魚は魚であって、彼の認識の中にはそれ以上解像度の高いものは存在していなかったと。
実際に、言語特性としてこういうことはある。魚食文化の薄い国では、日本のようにそれぞれに名前が無い。もちろん学術上の名前は存在するだろうけれど、認識されていない。中国の場合、その魚が黒かったら「黒魚」とか、馬のような顔をしていたら「馬面魚」、黄色っぽい魚は?そのとおり「黄魚」とか「黄花魚」とか。正式名称なんて使わないし、黒い魚はどれでも黒魚。魚編の漢字ってあんなにいっぱいあるのにね。あるけれど、用がないから使わないし覚えようとも思わないってことだ。
逆に、黒い馬とか赤い馬、速い馬に丈夫な馬は一語になっているんだってさ。日本語だと修飾語をつけて文章で表現するわけだけど、中国語にはきちんと名前がついている。魚の種類を言い分けるみたいな感じでね。
見事にその言語を使う国の文化が現れているよね。きっと、中国では馬は生活必需品だし色んな場面で表現する必要があったってことか。いちいち説明していると面倒だから「単語」にしてしまう。これが日本語なら、どんな馬も「馬」の一種類で済ませてしまう。分ける必要もないし、稀に分別する必要があったら修飾すればいい。つまり稀だから、面倒でも構わないってことだもんね。馬という言葉だけでも固有文化の背景が見えてきて面白いよね。
もう一つ例をあげるなら、ヨーロッパの肉の表現かな。まず、牛。雄牛と雌牛がオックスとカウと分かれている。そして食用になるとミートになるし、サーロインとかフィレと言った具合で部位によって名前がちゃんとついている。さすがに肉食文化の地域だからだよね。こういうのは日本語に存在しないから。牛肉のお腹の部分とか、そういう表現になる。
今日も読んでくれてありがとうございます。その言語の解像度がどの分野でどのくらい高いのかがわかると、その言語が育った文化圏でどのような認識をしているのかがわかるという話だよね。一般文化であっても、食文化であってもさ。なんか面白いなと。