エッセイみたいなもの

今日のエッセイ 「生涯学習宣言都市」について考えた。 2021年9月12日

「生涯学習」この言葉を聞いたことがある人はどのくらいいるんだろう。掛川市は「生涯学習宣言」を発表した初めての町です。昭和54年だから、もう40年以上前のことだ。

長年掛川市に暮らしていて、生涯学習の意味を捉えきれていなかったんだよね。学習ってなんだろう。つい、学校で習うものを想像してしまう。国語、算数、理科、社会。それから図工や音楽や体育。小学校だったらこういったものが勉強であり、学習だ。これを生涯続けていくようなイメージがあった。まあ、ぼくが生涯学習という言葉を初めて聞いたのが子供の頃だったからかもしれない。

教育の歴史を遡ると、こういった初等教育が国家によって配備されるようになったのは明治以降の話だ。それまでは、ほとんどが実務教育である。実務教育というのは職能を学ぶということだ。ただ、それだけだと将来性が限られてしまうので、読み書きそろばんを寺子屋で習い、武士は支配階級のスキルとしての四書五経を学ぶ。

近代に入って、初等教育が義務化されたのは支配階級が変化したからだ。支配階級と言うと言葉が良くないな。主権だね。国は誰のもの?の答えが日本だったら天皇だし、ヨーロッパだったら国王だったのが、国民のものということになった。いわゆる国民主権の民主主義だ。
国という巨大で複雑な仕組みを運営していくためには、それ相応の知識が求められるわけだ。当たり前だけれど、スキルも知識もない人がトップだと、組織は崩壊するよね。そのトップが国民全員になったのだから、全員がその知識とスキルを学ばなくちゃいけない。

そう考えると「生涯学習」という言葉の持つ意味はとても深く、そして広い。
人間ってなんだ?他人と自分はどう違う?社会はどうなっている?自分はどう生きる?幸せとはなんだ?
この普遍的な問いに対して、どう回答を見つけるか。その道筋をつけるための思考方法だったり、基礎的な知識だったりが必要になるってことだ。そして、その先に問いを立てる力をつけることでもある。
この道の入口に、小学校や中学校という初等教育がある。
必要な体力がなければ、ボールを投げたり蹴ったりといったスポーツが出来ないことと同じだ。頭の基礎体力をつけるために存在している。時々「学校の勉強なんて大人になって使うことはない」といったようなことを聞く。学生からも大人からも。だけど、基礎体力として必要だということだよね。

ジャン・ジャック・ルソーの社会契約論や教育論。この内容の全てが正しいとは思わないけれど、彼の思想が現代社会の基盤として機能していることは事実だよ。だから、彼がどんな思想を持っていたのか、そしてどんな思考をたどったのかということを、時代背景を含めて知っておくことには価値があると思うんだ。特にこの人は「そもそも論」が好きな感じがするし、メチャクチャロジカルだからとても学びが深い。
例えば、こういうことを知っているか知らないかで、ちょっとずつ未来に対する判断が変わるのだと思うよ。それは、社会に対するアプローチもそうだし、自分自身の人生における判断もだろうね。
まあ、とにかくそんなことの積み上げがホントの意味での学習か

今日も読んでくれてありがとうございます。緊急事態宣言が延長されて、飲食店としての商売は厳しい状況に立たされている。一方で、学ぶ時間をもらったとも言えるかな。APUの出口学長は「人と話す」「本を読む」「旅に出る」ことを学びのタネとして推奨されている。
人と会いにくいし、旅は控えろと言われているけど、本は読むことが出来る。少しずつ積ん読を解消しながら思考を深めているよ。

  • この記事を書いた人

武藤太郎

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