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今日のエッセイ 「誰かと一緒に食べる」 2021年9月14日

2021年9月14日

ひとりぼっちよりも、誰かと一緒にご飯を食べる方が美味しいと感じる人の方が多いです。これって、よくよく考えると不思議じゃない?たぶん「誰かと一緒にご飯を食べる」という行為自体、人間だけなんだよ。

人類以外でもいるのかな。と思って調べてみたら、チンパンジーはちょっとだけやるみたい。誰かがおねだりをすると、分けてくれる。そんな感じで。だけど、これは「一緒に食事を楽しむ」という範囲には入らないよね。

調べたついでにわかったことだけど、人間以外の動物で「所有」に近い感覚を持つのは「食べ物」だけらしい。確かに、衣食住といったら衣は無いし、住むところだって「私のもの」という感覚じゃないっぽいかもね。食についてだって、長期保存することが稀だから一時的なんだろうけど。縄張りは?動物学者によると所有ではなく、争いを避けるためのエリア分けになるのだそうだ。
だから、食べ物に関しては同種族感で奪うという行為は少ないそうだ。強さの優劣があってもそこは尊重されているのかな。さらっと読んでみただけだから詳しくはわからないけどね。

ぼくら人間にとって「誰かと一緒に食べる」という行為はどういうことなんだろう。相手と敵対せずに交流を図りたいとき。これが一番最初に脳裏に浮かんだ言葉だ。飲みニケーションなんて言葉が流行ったころもあったけど、実際お酒の場というのは、互いの距離を縮めることに一役買っていることが多い。これも、一種の食事だよね。
例えが悪いかもしれないけれど、ニホンザルのグルーミングに似ているなと。初対面の相手に近づく行為として、お互いの毛づくろいをする。始めから争うのではなくて、まず歩み寄ってみる。そういう感覚が、人類にとっては「誰かと一緒に食事」なんだろうと。

そう言えば、お客様がいらしたときには「まずはお茶を一服」という文化があるよね。「喫茶去(きっさこ)」という言葉になっているとおりだ。まずはお茶を飲みなさいと。江戸時代の文献を読んでみると、こんなことが書いてあった。花魁(おいらん)が初めてのお客さんと一緒になったときは、タバコに火を点けて自分で一服、そしてそのキセルをお客さんに差し出す。これも一種の喫茶去なんだろうか。

食糧は、元々快楽のためのものじゃなかったし、自分の命を繋ぐ生命維持活動の源だ。だから、ほとんどの動物は食事を分け合って食べるという行為をしない。それぞれの所有物で、不可侵領域となっている。だけど、人類はそれをするのだ。大切なものを誰かに差し出す。ただ、プレゼントするのではなく共有する。食糧そのものであり、摂食の時間もね。
そうやって、コミュニケーションの大切な部分、ロジックでは計り知れない部分というのを「一緒に食事」で作っているんだろうね。

今日も読んでくれてありがとうございます。新型コロナウィルスが蔓延してからというもの、「誰かと一緒に食べる」という機会は、家族に向けられている。些細な日常かもしれないけれど、それはとても有意義な時間と言えるのだろうね。家族じゃなくて友達とのグルーミング時間が恋しい気持ちもある。早く素敵な時間が戻ることを思って、今は耐える。かな。

  • この記事を書いた人

武藤太郎

掛茶料理むとう2代目 ・代表取締役・会席料理人 資格:日本料理、専門調理師・調理技能士・ ふぐ処理者・調理師 食文化キュレーター・武藤家長男

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