エッセイみたいなもの

今日のエッセイ ○○食禁止が意図したもの。 2021年9月21日

欲求の水準を下げておくと、その水準を少しでも上回ると幸福感を得られる。なんて書き出しをすると、なにやら難しい話に聞こえます。確からしい論文を読んだとか、研究をしたとか、そんなんじゃないんだけどね。そんなもんなのかなあ、と思ったくらいのことだ。

例えば、真夏の暑い日にわざと暑い部屋に数分いて、その部屋から出ると籠もった熱気から開放されて「涼しい」と錯覚するようなことあるよね。アホだった学生時代に、暑いからって電話ボックスにこもって一瞬の錯覚を楽しんでいたのよ。やったことある人他にもいるのかな。

拡大していくと、スポーツのルールなんかもその部類だよね。例えばサッカー。手も足も使えばもっと自由にボールを扱えるはずなのに、手を使っちゃダメという制約を作っちゃう。そうすると、当たり前だったはずの「ボールをコントロールする」が、急に難しくなっちゃう。だから、ボールを思い通りにコントロール出来るだけで嬉しくなっちゃう。
不自由をかすことで、自由を手に入れた瞬間に幸福感を得る。そんな構図なんだろうと思う。

なんで、こんなことを思うようになったかと言うと、精進料理やハラルフードなどのことを考えていたからなんだ。宗教上の理由で、食べられないものがある。現代において、どのくらいの人たちが深い信仰を持っていて、厳密に戒律を守っているのか知らないけれど、あるよね。日本人はその感覚が薄いからピンとこないだけ。
日本に渡来した仏教は、肉食を禁止していたよね。ホントは今でもなんだけど。まあ、一般の家庭で肉も魚も食べないという人は少数だろう。お葬式の後くらいかなあ。あと、イスラム教は豚肉がダメだし、ヒンズー教は牛肉がダメ。お酒もダメだよね。

この戒律の理由は、諸説あるからなんとも言えない。その宗教を信仰している人にとっては、理由は明確で「神様が決めたから」だろうけど。宗教学や人類学みたいなジャンルでものを見ると、他にもあるそうだ。輪廻転生が信じられている宗教だと「目の前にいるヤギがもしかしたら自分の親かもしれない」という発想に至るのは自然の流れだろう。食べられないよなあ。もしかしたら「動物が可愛そう」愛玩的な発想がスタートだったかもしれないし、当時の衛生環境を考えると食あたりが死に直結するから禁止したかもしれない。そんな見方がある。

ここに、無理やりのようだけど僕なりの仮説を加えるとしたら「欲求の水準を下げるため」が入ってくる。いや、勝手な仮説だからね。ホントのところはわからないよ。
宗教を運営?していくにあたって、みんなの欲求水準を下げておくということは、社会システムの安定のためには都合が良いという側面もあるんじゃないかな。近代以前の宗教というのは、現代の感覚とは違っていて「社会システムそのもの」だったわけだから。誰かの意思というよりは、社会システムの要求だったということだ。とすると、前述の解釈も成り立つのじゃないかと思うのだ。

欲求の水準を下げておけば、小さな幸福に遭遇する回数があがる。それに、大きな欲求を満たすために犯罪を犯す確立もさがる。国家転覆を考えるような人だって減る。人間としての自由を奪われているように見えるのだけれど、社会が乱れて人が死なないようにと工夫されていったシステム。そういうこともあるのかもしれないよなあ。
という、ぼくの個人的な想像ね。

今日も読んでくれてありがとうございます。現代人はもっと自由だよね。だから、欲求に際限がないとも言われるけど、水準を下げる生活をしたいかというと、したくない。制限を開放した状態で、肥大する欲求をどうやってコントロールしてくのかというのが、個人でも社会システムとしても抱えている課題なんだろうね。

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武藤太郎

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