エッセイみたいなもの

今日のエッセイ リスクとリターンの大局観 2021年9月25日

リスクとリターンについて以前にも書きました。これをそのまま東京オリンピックに当てはめるのはちょっと危険な気もするのだけれど、あえて論じてみようかと。

良し悪しはちょっと横において、何をリスクとして何をリターンとして捉えるかを考えるとしよう。その整理なしには良し悪しの判断も出来ないわけで。リスクは言わずもがなで、新型コロナウィルス感染症の蔓延とそれによる医療体制の逼迫や、経済の停滞などだよね。これ一点で良いと思うんだ。じゃあ、リターンはなんだろう。

オリンピックの開催における経済的なリターンは、もうほとんどない。あるかないかで言えばあるのだけど、当初想定していた規模ではないよね。だって、人がやって来ないのだから。それ以外って何があるの?歴史に名を刻むこと?実利を考えるとそんなことはどうでもいいって言う人もいるけれど、これは意外に侮れないリターンだと思うんだよね。将来的な経済リターン、知名度などは絶対的な影響を及ぼすこともある。ないかもしれないけど、あるかもしれない。これをあるにするためにオリンピック委員会も頑張ってきたわけだ。

あとは、パンデミックに対する強烈なメッセージ。連帯、平和というキーワードは何度も繰り返された。尊敬し合うことや、差別がないこと。助け合い、分かち合い、思いやること。そんなメッセージだ。政治的な動きや裏の事情はあったとしても、純粋なメッセージとしてはとても強烈だと思う。
今の世の中で、同時期に世界中の人々が同じメッセージを受け取ることができるメディアコンテンツとして、オリンピックを上回るものはないだろうからね。平易な言葉でも、スポーツ選手たちのスポーツにかける情熱を伴うだけで、より強烈なものになる。

閉塞感が高まる情勢下においては、お金やロジックを超えたスポーツやアートが人類にとってとても有益な影響を及ぼすだろうことは、たくさんの著名な学者たちが証明しているのだから。それもリターとして加えても良いかもしれないなあ。

他にもあるだろうけれど、リターンが仮にこのくらいだとして、リスクをとるだけの価値があると判断したから実施に踏み切ったということだろう。けど、おそらくは想定外のリスクが発生するわけだ。「オリンピックが開催しても良いならウチもいいよね」という、リスク&リターンを考えない行動原理の発生だ。

オリンピックやったくらいだから、集団で飲みに行ってもはずだよね。だって不公平じゃん。
心情的に言いたいことはわかるけど、そこにリターンがどのくらいあるかという視点を加えると、全く別のものに見えてくるんだよね。個人としてはちゃんとリターンがあるだろう。ストレス解消にもなるしね。飲食店の売上にも貢献するんだから。だけど、社会全体で見るとどうなんだろうと考えてしまうよ。
リターンよりもリスクの方が大きいんじゃないかしら。リスクに対して得られるリターンが小さいというのかな。そんなふうに見えてしまうのだけど、どうだろうね。

オリンピック開催についてのリスクの中で、抜け落ちていたのはこの「想定外」を想定していなかったことかもしれない。というのは想像でしか無いけれど。ある意味、ぼくら日本人はそんなことしないだろうと信用されているのかな。

今日も読んでくれてありがとうございます。めずらしく踏み込んだ内容を書いたけれど、どこまでがリスクでどこまでがリターンか、という判断はとても難しいよね。細かな判断の積み重ねで社会やぼくらの生活は成り立っているし、会社の経営も同じ。ここから学び取れることはなんだろうか。

  • この記事を書いた人

武藤太郎

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