エッセイみたいなもの

今日のエッセイ ビジネスとしての飲食店の差別化 2021年10月7日 

日本の料理って凄いですよ。日本料理がってことじゃなくて、現在の日本では大体どこでも美味しくご飯を食べることが出来るって話ね。最近こんなことを言ったら驚かれてしまったのだけど「料理ってマズく作るほうが難しい時代になった」って思うんだよ。

もちろん美味しいにも幅があって、例えば一流のパテシエが作るデザートとコンビニで売っているデザートが同じということは無い。それは断じて無い。だけれども、コンビニのデザートだって、十分に美味しく作られているじゃない。これって、ホントに凄いことなんだよ。歴史をさかのぼってみれば、そんなことは無いのだ。
江戸の町を売り歩いた「屋台そば」。二八そばなんて言われてたけれど、明らかに味が違ったみたいだよ。美味しいところは美味しいけれど、そうじゃないところはホントに不味かった。それでもなんとか商売が成り立っていたって言うんだからね。面白い。
うっかり料理の歴史の話が始まっちゃいそうだ。現代の話に戻そう。

今は、「どういう状態にすれば人間が美味しく感じるのか」は、科学として学問としての一分野にすらなっている。だから、ある一定のレベル以上の食味は科学的に導き出すことが出来てしまう。極端なことを言ってしまえば、お吸い物だってうま味調味料と香料で成立してしまうのだ。今のところ、コストパフォーマンスを考えたら商品家できていないだけで、実は科学技術としては出来上がっているものが存在していたとしても驚かない。実際に「いくら」は、人間もコンピューターも騙されてしまうレベルのイミテーションを作ることが出来るくらいだからさ。

現実には、もちろんちゃんとした食材を使ってちゃんと作ったほうが美味しいし、安上がりだ。この状況もいつまで続くのかわからないけれど。とりあえず、そうだ。そして、どの食材をどう扱えばよいのか、それをどのように味付けしたら「美味しいと感じる」のか。その人口が最大になる値は何か。ということは、だいたい数値化されている。だから、いつ食べても同じ味がする。

そういう状況を考えると、ぼくらのような飲食店はどこに価値があるのかということを真剣に考えなくちゃいけないはずなんだ。ということを、ずーっと言い続けてきたんだけど、あんまり伝わらなくてさ。うまく言語化出来ないから。

価値の置きどころはふたつあると考えている。ひとつは完成した商品。そして、もうひとつは商品をつくるプロセス。
完成品は完成品で、まだまだ勝負ができると思う。「いつでも同じように美味しい」は、「いつでも美味しく感じる」とは別のことだから。食べる時の気持ちや、体調、環境で感じ方って変わるじゃない。観光でいっぱい歩いた暑い日は、少し塩味を強めにするとか。そうすると、いつもどおりの味に感じるんだよ。これは数値では測れない。いや、測れるんだけど、ひとりひとり合わせられない。そういうことが出来るのが個店の強みだ。
もう一つは、プロセス。カウンター割烹というスタイルを確立させた「浜作」さんがいい例だけれど、料理業界じゃなくても最近は多いよね。その事業や商品にかける情熱や、それを通して成し遂げたい夢、そのプロセスそのものの面白さ。そういうのが差別化になる。どうせ同じものを同じ価格で買うのなら、共感して応援したくなる人から買いたいというのは、あるよね。もしかしたら、人間の普遍的な部分かもしれないとすら思っている。

今日も読んでくれてありがとうございます。掛茶料理むとうは、差別化という意味でも「食文化をエンターテイメントとして楽しめること」「楽しいは明日の想像力の糧になる」ということをポリシーに据えて営業しています。実は、たべものラジオも、このストーリーの中のひとつなんだよ。

  • この記事を書いた人

武藤太郎

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