エッセイみたいなもの

今日のエッセイ たべものが社会システムを変えちゃった。 2021年10月8日

家庭での仕事は、炊事、洗濯、掃除が主なところですね。これも時代によって随分と様変わりしたんだなあ。だってね、それぞれの仕事の工程がかなり短くなっているんだよ。

炊事ひとつとってもそうだ。ぼくらの考える「家庭での料理」ってさ。手をかけるとしても野菜を切ったり、煮たり焼いたり、中には霜降りをする人もいるかな、というくらいなものだ。それだって立派な仕事なのだけれど、わずか100年ほど前では考えられないくらい簡素化されている。家庭での仕事が社会の側に移行していっていると言える。

例えば、ご飯を炊くにしたって、米を研ぐところからはじめる。無洗米だったらその仕事すら無いのだけれど。昔は、米を搗いて精米するところから始めるわけだ。精米する、研ぐ、浸す、火を起こすという流れ。うどんだったら、石臼で粉を引くところからスタートするわけだし、味噌だって作り置きをしておくのも家庭なら味噌汁にする前にすり鉢ですっていた。
ざっくりと何をしていたかというと「原材料を仕立てる」ということだね。調理の中にこれが含まれていたんだ。

現代なら、精白米か無洗米を買ってくれば精米しなくて良いし、うどんだって生麺か乾麺を買えばいい。味噌もすぐに使えるし、豆腐だって完成品を買えばいい。面倒な原材料処理は、社会システムの中で行うようになった。だから、もうこのプロセスは「調理」に含まれなくなっているよね。昔の人達は時間がかかっていたんだなあ。

調理にかかっていた時間が少なくなったことで、家庭での仕事は随分と減ったし、その分社会の中での仕事に時間を割くことが出来るようになった。これが、近代産業の発展の基盤になったんだと思う。「時間ができた」と「仕事が増えた」だ。家庭での仕事が社会の側に移行したのだから、仕事は増えているよね。
これは、この100年ちょっとの間に、ひとりひとりの「家庭で使われていた時間」は、ずいぶんと「社会で使われる時間」に置き換えられていったとも言いかえられる。

人類の歴史を紐解くと、集団の最小単位は家族である。その根幹をなしているのは「食糧分配」だ。奪い合うのではなく分かち合うということが、人類の集団形成の根幹じゃないかと思うんだよね。それが、ちょっとずつ変容している。ちょっと前に読んだ統計だけど「家族が揃わなくなった」というのが傾向として見られるのよ。朝ごはんだって、出社や通学のタイミングに合わせて個人個人が自分のタイミングでご飯を食べる家庭が増えたし、なんなら食事の内容もそれぞれに違うということも増えている。まるで町の定食屋さんだ。夜にしても、会社帰りに1杯ということになれば家庭での食事に欠員が出るわけだし、残業であったとしても家族が揃わない。

こういう現象は世界的に起きていて、良いか悪いかではなく、そういうもんだということになるのかもしれない。ただ「家族が揃う」ことが大切だよねっていう感覚は、世界中の共通認識みたいだ。なんだろうね。人間の本能的なものなんだろうか。ぼくだってそう思う。儀礼みたいだけれど、一堂に会して同じものを食べるということが集団形成の核になっているんだろうかね。
だから、「家族が揃うための食事」は意識的に作り出していくことが求められている。これからの時代はそんな側面を持っていって、今よりも濃くなっていくかもしれない。

今日も読んでくれてありがとうございます。外食のあり方が、外食産業が生まれた初期と比べて家族向けが増えてきているということも、現象のひとつだろうね。うちの店は、接待利用も多いけれど家族利用がとても多い。料亭としては比較的珍しいのかな?田舎はそれが普通なのかな。家族が揃う時間も、一部は社会の側で担うことが出来るのだろう。

  • この記事を書いた人

武藤太郎

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