エッセイみたいなもの

今日のエッセイ 努力してきた時間とは 2021年10月9日

ぼくらが子供の頃、「努力」というのはど根性と時間に支えられていたと思うんです。努力は「時間」で測られていた感じがするし、それを成し遂げるために「ど根性」が必要。そんな感じだったんだよね。だから、「昨日○○時間も勉強したんだよ」というと褒められるようなこともよくあったんだよ。今でもそういう傾向ってあるのかな。

ちなみに、ぼくはやらなかった。だって、面倒くさいじゃん。漢字ドリルだって計算ドリルだって、苦手な人が克服するために反復練習というのはいいのかもしれないけどさ。ぼく個人にとってはあんまり役に立っていない。なんてことを書くと、ぼくの恩師もこのエッセイを読んでくれているらしいから叱られるかもしれないけれど、30年以上前の話なので勘弁してください。

とにかくやりたくなかったし、やらなくても結果は出ていたから良いと思ってたんだよね。だから、ドリル系の宿題はひたすら「作業」。思考なんてしない。学校から帰ってきて眠るまでの時間は、「楽しみの時間」だという感覚だったから、その時間を興味のない作業に費やしたくないわけ。で、考えた。楽しみの時間以外に済ませられないかってね。で、朝起きてから帰ってくるまでは、まとめて「学校の時間」。だから、全ての宿題は早朝やることにした。メチャクチャはかどるのよ。テレビもやってないし、雑音もない、家族の誰も起きていない。夕方やってたら1~2時間かかりそうなものも、30分もあれば終わる。終わりの時間も強制的に決まっているしね。

その代わり、興味のある宿題が出たときは、宿題の範囲も超えて好きなように学習時間をあててたかな。単純に面白いからさ。テストの点数には全く影響しないんだけど。子供のぼくにとってはどうでも良いから。何時間もブロックで遊ぶような感覚で、ひたすら実験したり本で調べたりしてたかなあ。

最近、いとこや兄弟と話をしていて、家庭学習の話になったのね。みんな小学生以下の子供がいるからさ。それで、改めてそれぞれの子供の頃を一所懸命思い出したのよ。30年以上前のことを思い出すのって、なかなか大変な作業だったけど、なかなか興味深いよね。自分がどんな子供だったのか。自分自身ではあるのだけれど、ちょっと別人のような感覚もあって、客観的に見られる感じがある。

小学校の宿題というのは、意味があるものだと考えられているから存在する。それは良いのだけれど、個人個人の学力も違うし、効率の良い学習の仕方も違うんじゃないかと思っていてね。合わないとなると、つまらないとか面倒くさいという感想が生まれるし、学びとして内容が浅くなるんだよ。きっと。
という話になった。
それからね。時間数って関係ないよなあって。長くやったから良いというものじゃない。スピードが違うからね。なんなら、量も関係ないかもしれないという話だ。大人になってから振り返ってみると、小学校の頃の時間と量が中学校に繋がったか、中学校の時間と量が高校に繋がったかというふうに俯瞰できるからさ。そうしてみると見えてくることがあるじゃない。

量については、一定のパフォーマンスを発揮することがありそうだということはわかった。効果を得るための条件は諸々ありそうだということも含めてね。ただ、時間はほとんど関係ない。同じ時間をかけて行なったとして、学びの効率に差が大きすぎるから。ぼくは勝手に学習率って言ってるのだけれどね。

今日も読んでくれてありがとうございます。教育の専門家ではないから、在野の勝手な論議でしかないよ。ただ、子どもたちの努力を「時間」で計測するのは意味がないということだけは、言えそうだと思うんだ。

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武藤太郎

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