エッセイみたいなもの

今日のエッセイ 信頼関係を築くために食事に行くと良い。そのわけ。 2021年10月19日

「食事」ってなんだと思いますか?というと、あまりにも当たり前過ぎて、意外と言語化が難しいかもしれない。平たく言えば、食べ物を食べることなんだけど。いろいろ食べ物の歴史を調べていくと、その時代ごとの社会によって「感覚」が違う気がするんだよね。

ぼくらの社会とわかりやすく違うことが分かる部分が、家庭での食事。そもそも、家庭というもの自体が「食べ物を共有する最小単位」として成り立っていた。少々語弊があるかもしれないけれど、実際にそうなんだよね。

紀元前数千年前からずーっと、人類は食べ物を確保することに力を注いできた。米や麦やトウモロコシ、肉に魚。狩猟採集が容易な地域は良いよ。だって、ちょっと出かければカンタンに食べ物を揃えることが出来るわけだから。そうじゃない地域は、いろいろと苦労があるわけだよね。その苦労というのが農業。あんな面倒で、たくさんの人と協力しあわなくちゃいけない作業をしてまでして、なんとか生きるための食料を確保してきた。
だからこそ、他の集団との間に対立構造が生まれることもあったし、交易をして相互協力をすることも生まれる。その歴史の延長上に、集団が大きくなってきたのが現代につながっているんだよ。

でね。当たり前のように食べ物を分け合える人間関係があるというのは、安心できるし嬉しい。という感情が生まれるのはとても自然なことなんじゃないかと思うんだ。家族だったり、集落だったり。だからこそ、家に帰ってくればみんなでご飯を食べることが出来るという気持ちになれる。
つまり「食事」は手に入れた食料を分かち合う時間だったということだ。

これが、時代とともに変化していく。食事を用意するための労力がドンドン下がっていく。現代では自分で農作業をしなくてもお金で買うことが出来るし、料理すらしなくても食事が出来る。長い人類の歴史の中で、こんなことが当たり前の社会になったのは、つい最近の話だ。最近と言っても百年単位だけどね。
この社会変容のせいで、家庭における食事の意味合いが変化する。

食べ物を分かち合うためではなく、食事を通して信頼できる集団であることを確認する行為になったんだ。元々は、食べ物を分かち合うための集団行為で、その結果信頼関係が生まれた。
完全に、目的と副作用がひっくり返っている。
もう誰も食糧危機の心配をしていないのが現代日本。だからこそ、家族が家族として機能するために、なにかしらの身体的行為が必要になってきたとも捉え直すことが出来るかもしれない。

これだけ社会の側が変化していくと、食事という行為の捉え方も変わってきてしまうよね。これはとても自然な流れだと思うから、過去に立ち返るべきとは思わない。むしろ、現代の価値観でしっかりと定義し直しておくことが大切なんだろうと思うよ。何のために、自分以外の誰かと一緒に食事をするのか。ってことをね。

今日も読んでくれてありがとうございます。仲良くなる第一歩は、一緒に食事をすること。世界中で語られるのは、こういう背景があるから。だから、家族でご飯を食べるし、仲間と食事に行くし、接待も食事なんだよね。そういえば、初めてのデートは食事ということも多いのはそういうことなんだと思うよ。

  • この記事を書いた人

武藤太郎

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