エッセイみたいなもの

今日のエッセイ やってみなけりゃわからない 2021年10月27日

「やってみなけりゃわからない」という人がいます。ぼくもまたその一人。何が良くて何がダメなのか、論理的に考えてわかる部分もあるのだけれど、結局の所「やってみなけりゃわからない」部分のほうが大きいんだと思うんですよね。

子供の頃から、石橋を叩いて渡るタイプだと言われてきた。自分でも振り返ってみると、そのとおりだと思う。いや、むしろ石橋を叩いてなお渡らないなんてこともあったような気がする。そのくら慎重というかビビリだったんだよ。今でもその傾向がゼロになったわけじゃないんだけどね。だいぶ変わったんだと思う。両親からはそう言われるよ。

石橋を叩くというのはどういう行為だろうか。基本的には過去の事例を取り上げて、それを分析することが多いかもしれない。メリット・デメリットを過去の事例から予測して、その延長上で判断するということだ。今でもこれはやる。業界の中のことはもちろんだけれど、それ以外のことだって使えそうな事例は片っ端からあたる。置き換えられそうな概念は、いろいろインプットしておくことにしている。

なんだけど。だけどなんだよ。過去の事例は、全て過去のことなんだよね。

AIが発達して、過去の事例から精度の高い予測が立てられるようになってきた。とはいえ、未来は不測の事態が起こる。想定外の事が起きることが想定内。というくらいのものだ。なぜ想定外のことが起きうるかというと、未来を完璧に想定することが難しすぎるからだ。どれだけAIが進化したところで、集積している事例は全て過去のものでしか無いのだから、完璧に予測できるのは過去のことってことになるんじゃないかと思うんだよね。
つまりこういうことだ。100年前のことを予測するために500年前から101年前までのデータを用いるのであれば、ほぼ完璧な答えを出すことが出来るかもしれないけれど、100年後のことを予測することは困難だと。

石橋を叩く行為の中で拾い集めるのは、比較的未来でも起こりそうな事柄だ。たくさんある事例の共通点みたいなものを拾っていって、おそらくは普遍的なことだろうと思えることかな。こういう状況になると、人間はこういう行動をとりがちだ。とかね。それも、けっこうミニマムな事柄が多いかもしれないなあ。大局的な状況で考えると、無理があるんだもの。過去に同じ事例なんてないってこともたくさんあるだろうし。

なるべく石橋を叩くけれども、最終的には渡ってみないとわからない。
石橋を叩いて渡らない性格で、それを繰り返してやってきた結果たどり着いたのは、ここだったんだよね。結局のところさ。

今日も読んでくれてありがとうございます。料理も同じなんだよ。作りたい味を想像して、レシピを考える。それを実行に移したとしても、そのとおりの味になるとは限らない。それに、想像したとおりの味を再現できたとしても、食べるヒトが美味しいと感じてくれるかどうかはわからないんだよね。

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武藤太郎

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