「想像したことが想像した通りに現実になること」っていうのは、人間にとって快感なのかもしれないよね。いきなり意味がわからないことを言い出してごめんなさい。
至近な話をするとさ。例えば、ナッツをポリポリ食べているとするじゃない。あれって、妙に止まらなくなるときあるよね。ね、ぼくだけじゃないよね。止まらなくなるのは、美味しいからっていう理由だけじゃなくて、ずーっと歯ごたえを確かめているような気がするんだよ。
パク。ポリポリ。そうそうこの硬さ。この食感だ。よしよし。
これが、湿気ていてやわらかいと気に入らないよね。美味しくないのと同時に気に入らない。そんな感じもするんだなあ。
このケーキは見るからに甘そうだぞ。と見たら、甘さの度合いはさておき、ある一定ラインよりも甘いであろうと想像する。そのラインよりも甘さが足りないと、なんだかがっかりするだろう。もしケーキの見た目で味噌汁の味がしたら、衝撃的に「マズイ」と感じるかもしれない。
想像した通りでは無いからだ。想像の範囲を大きくハズレてしまうから。びっくりして、直感的にダメなものと判断してしまいやすい。
初めから「これはみそ汁で、見た目だけケーキです」とわかっていれば、それなりに食べられるんじゃないかな。美味しいかどうか微妙だけど。なんで味噌汁味で例えたんだ?これ、例え話としては失敗だなあ。まあいいか。
「想像したことが想像した通りに現実になること」は他動的なことだけじゃなくて、能動的なことにも当てはまる。サッカーなんかはそうだよね。ゲーム自体が面白いのだけれど、それ以外にも「本来足で扱うのが難しいはずのボールを思い通りに動かせる」ところに快感が発生するような気もするし。
料理を作ることだって同様かな。想像したとおりの味を出すことが出来たら、美味しいだけじゃなくて「よし、よくやった」って、自分を褒めたくなるんだもの。これって、同じことだよね。包丁技術だって、きっとそうなんじゃないかと。
食べる人が美味しいと褒めてくれるよりももっと前、もっと原始的な快感がそういったものから生まれているのかもしれないと思うんだ。
とまあ、こんなことを想像してみて。お客様に料理を提供する際には、「事前にどんな情報を伝えたら良いのかを考える必要がある」ということがわかる。ちゃんと、正しく喜んで頂く為に「これから起こることを想像してもらう」為の準備があると良いよね。来るぞ、来るぞ、ほら来た。そんなストーリー。
これが基本のキ。
ま、ずーっとこのパターンだと飽きちゃうんだろうけどね。だから、何回かに1回は想像を少しだけ裏切るような仕掛けが必要なんだろう。世阿弥の風姿花伝で説かれている「新しき、珍しきが花」と言う言葉は、どうにもこのさじ加減にかかっているようだ。
今日も読んでくれてありがとうございます。こんなことを言語化して考えると、直感の芸術性が薄れていくんだよなあ。言語化しない方が面白いことも多いからさ。そういう意味でも料理というのは、バランスが大切だっていうことが言えそうだ。