近頃、本や論文を読んでいて気がついたことがあるのです。薄々感じていたけれど、やっぱりそうだよなっていうことなんだけど。概念やら法則やら文明やら、そういったものについての記述は、なんとなく内容がかぶるんだよね。
もちろん、仔細なところは違う。だけど、抽象化すればするほど色んなモノが近づいていって「似たようなことを言っている」ということになっちゃうんだ。これは、読み手がぼくだからだということもある。いや、この表現は語弊があるな。一人の読み手というフィルターを通しているから、解釈が似通ったものになりがちだということもあるという意味だ。
それにしても、似ている部分。まあ、共通点がたくさん見つかること。
誰かが誰かをパクっているんだろうか。近年のビジネス書なんてのも、だいたい似たようなことを色んな角度から言っているに過ぎない。と言ったら怒られるかもしれないけれど、同じようなことに落ち着いちゃうんだろうね。
失敗を恐れず行動し、正しいと「思った」ことは成功するまで継続せよ。
自分自身にも言い聞かせることだし、社内でも話していることだけれど、世の中の成功者と呼ばれる人たちも、だいたいこんなことを言っている。真逆のことを言っている人の話を聞いたことがないのは、ただ出会っていないだけなんだろうか。
こうなると、同じことを言うのにも「誰が言ったか」や「どう言ったか」が重要なんだろうね。それによって伝わり方が違うだろうし。書籍でも良書とされているのは、著者の筆致だったり人格や人柄みたいなものも含まれてのことのように感じている。
そういう意味で考えていくと、史上最強の本は「真理の言葉」や「四書五経」になるんだろうか。著者はブッダのお弟子さんたちと、孔子のお弟子さんたち。弟子たちが書いているけれど、まあ本人がこのようなことを言っていたということで良いか。そうすると、もう紀元前の段階で大抵のことは語られてしまっていて、いまさら現代人がどうこう言ったところで、全てはブッダのパクリみたいなもんだってことになっちゃう。
釈迦といえば、仏教の経典って面白いんだよね。原始仏教を大切にしながらも、それを基に発展させて自己解釈で宗派を起こして良いってことになっているんだ。だから、宗派の数だけ仏教に関する解釈がある。もっと言ってしまえば、仏教を学んだ人の数だけ解釈がある。
正しそうなことがらは、知の大爆発時代(釈迦、孔子、アリストテレスなどの生きた時代)にだいたい出尽くしている。これらから学んだことを基に、後世の人達がいろんな解釈をして哲学思想をスライドさせていくんだよね。さっきの「誰が言ったか」「どう言ったか」も含めて、どんどん変わっていくんだよね。
現代では、書籍もあるし動画もポッドキャストもホームページやブログもあるから、それこそ数多くの解釈が生まれるし、手に入りやすい環境にある。受け取って、自分なりに解釈して発信されるということが加速しているのだけれど、古代からずっと続く流れの中にあるように見えるね。
今日も読んでくれてありがとうございます。偉大な経営者や、学者の話を聞いて「おまえも釈迦のパクリかい
」というツッコミを聞いたことがない。いたとしたら、そのツッコミ役の知力は凄まじく高いレベルなんだろう。