ルーティーンにしている動作をしてからなにかに取り掛かるということがある。全員じゃないけれど、みんな少なからず有るんじゃないかな。朝起きてからの一連の流れだってそうだしね。
ぼくが販売員をしているころは、売り場に入るとき「扉を勢いよく開けて、左足から一歩踏み出して一礼する」というのをルーティーンにしていたんだ。自分自身のモードを切り替えるスイッチだ。
スポーツの世界では、イチロー選手がバッターボックスで右肩の袖をちょっと引っ張る姿が有名だね。あとは、ラグビーの五郎丸選手のキックするときの独特の仕草とか。
自分の中に、何かしらのプログラムみたいなものがある。そういう想定で、そのプログラムを起動するようなイメージ。起動スイッチは自分で決めれば良いのだから、何でも良いってことだね。別にカッコよくなくて構わない。自分のためだからさ。自分さえ気持ちよくそのモードに入れたら良いわけ。
ただね。プログラムが存在していないのに、起動スイッチを押しても意味がないんだよね。当たり前だけど。
尊敬する人が皇居ランをしているからといって、それだけで同じように慣れるわけじゃないし、ぼくらがイチロー選手のルーティーンを真似したからって、ヒットを量産できるわけじゃない。そりゃそうだ。
予めプログラムをインストールしておかないとね。
プログラムのインストール方法については、身近なところでちゃんと教えてくれているんだよ。気がついていないだけでさ。日本人の多くは、ゆるーく仏教徒だよね。葬式のときくらいしか接点が無いかもしれないけれど。実は、仏教の哲学の中でちゃんとロジックで解説されているんだ。ちなみに、ぼくは熱心な仏教徒ではないけれど、哲学としての仏教は凄いレベルに有ると思っている。
まず、学ぶこと。仏教で言えば経典をしっかり読んで釈迦や先人たちが積み上げてきた知見をしっかり学ぶ。そして、それを自分なりの解釈をする。こんなことが書いてあったけどどういうことだろう。そんな思考を巡らせる時間が必要だ。そして、それを自分自身に実装していく。生活や社会と融合させる感じかな。一般的にはやってみるというフェーズなんだろうけれど、仏教では修行になる。ロジックだったものを身体感覚になるまで刷り込むわけだ。そうすると、自分のものとしてちゃんと使えるようになる。
随分前に仏教の本を読んで以来、仏教世界に溶け込んだ哲学の魅力を感じていたのだけれど、長い間修行というものの意味がわからなかったんだよね。なんか意味があるのかと。釈迦だって、悟りを開く前はバラモン教の厳しい修行に対して否定的だったしさ。それこそ、浄土真宗の「とにかく南無阿弥陀仏と唱えなさい」なんて、無意味じゃないかと思い込んでいた。ごめんなさい。
だけど、その部分はロジック=真理ではなくて、それをインストールするための作業だと解釈すると、部に落ちる。そうだ。インストールするというのは、腑に落ちるという感覚にも近いかもしれない。
修行に意味がなかったら、釈迦が修行を肯定するはずないもんんなあ。あ、禅も含めて修行ね。
さて、ぼくらの生活の中でインストールする行為ってなんだろうね。その前段階の、学びと解釈も。思想(プログラム)の部分が無いと意味がないし。
学校で教育を受けても、学問は社会で使えないと思ってしまっている。そんな風潮があるようだ。だけど、それって解釈と実装が出来ていないだけなんじゃないだろうか。最初の「学び」の部分、その基礎を助けてくれているだけなんだから。そう考えると、義務教育ってめちゃくちゃありがたい存在だと思えてくる。
学校で教わったことを自分なりに解釈して、それぞれに疑問をもち深めていく。既にここから抜け落ちてるかも。そして、解釈したものを自分自身にインストールする。この部分は・・・ほとんど無いだろうなあ。
今日も読んでくれてありがとうございます。料理の修行なんて短ければ短いほど良いと思っているのだけれど、無いよりもあったほうがよいと思う。これは実装する為の時間だと思えば、だね。すっかりインストールしてしまえば呼び出すことが楽になる。あ、起動スイッチの話までたどり着かなかった。明日ね。