エッセイみたいなもの

今日のエッセイ 学びを実際に使う技術 2021年11月11日

昨日の続きです。学んで、それを自分なりに解釈すること。そして、解釈したものを日常で使用することが出来るようにインストールいすること。という話でした。じゃあ、日常で使用するんだったら、どう使うかということだ。

まず、常駐プログラム。もう、これは毎日使うものだからね。いちいち起動するような話じゃないかもしれない。日頃のものの捉え方だったり、思考方法なんかはたいてい常駐プログラム。だって、人格にも関わる部分が多いじゃない。仕事でも生活でも何でも良いのだけれど、考え方の基本になっているようなものはデフォルトで使う。なんだろうな。OSのバージョンアップみたいな感覚。常にそれ。ということだ。

それから、必要なときだけ取り出して使うプログラムもあるよね。昨日のぼくの例で言えば、接客販売モード。日常から、それこそ友達や家族の前でまでそのモードでいたら、うっとうしいでしょ。だから、仕事中だけにしていたんだろうね。だろうっていうのは、そんなことを考えてやっていたわけじゃないからね。無意識にやっていた。たまたまね。
ちなみに、たまたまやっていたことと、それを理解してやっていたのとでは大違いだと思っている。再現性がないし、実行の深さが違う気がするんだよ。

さて、この時々つかうプログラムを呼び出すための起動スイッチが、ルーティーン動作だということだ。大した話ではないのだけれど、一度体内にインストールしたものだからきっかけさえあればちゃんと使えるはずだ。

実は、仏教の中にもそれがある。専門家ではないからぼくが読んだり聞いたりしたことの範囲でしか無いのだけれどね。例えば高野山真言宗。空海が開いた宗派で、密教と言われるものだ。これは、印を結ぶという動作が有る。印というのは、手の組み合わせをいろんな形にするものだけど、映画や漫画で見たことないかな。ぼくは、孔雀王という漫画で見たのだけれど。
あれ。実はその行動そのものに力が有るのではないらしい。なんの修行もしていない人が印を結んでも、なんにもならない。己にインストールされた教えを「印を結ぶ」という動作によって、呼び起こすための手順。そう考えるととても納得しやすい。

密教の考え方や、唯識論、空の思想なんかがベースになっているのだけれど。これを書き始めるととんでもない文字数になりそうだからここでは、ちょっとね。やめとくよ。興味があったら書籍なりググるなりしてみてくださいな。哲学思想として、とても面白いよ。

起動スイッチをどんな形にするかは、本当は自分で決めたら良い思う。密教では形を決めてくれているから、とても親切なんだよね。その通りにやれば、自在に使うことが出来るんだもの。だけど、そうやって型を決めてくれているような親切なものはあんまりない。朝礼などはそれに近いものかもしれないんだけどさ。それも、参加する自分次第でスイッチにもなるし、何にもならないし。

今日も読んでくれてありがとうございます。料理屋だったり、ディズニーランドだったり、外部のものから影響を受けてスイッチが入ることも有るよね。雰囲気というやつだ。実体験やアニメや映画から、良いモードをインストールされていて、それが雰囲気によって呼び覚まされる。そういうこともあるのかもしれない。あ、デートに使えるのはそういうことか。

  • この記事を書いた人

武藤太郎

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