食べ物に意味を込めるのは日本の独特の文化です。海外にも、記念日を象徴する料理や食べ物はある。だけど、日本にはそれがとても多いの。そのほとんどがダジャレで成り立っているのが興味深い。
例えば、めでたいときに食べる食材といえば「鯛」が定番だよね。もちろん、それそのもが美味しいということも有るけれど、基本はダジャレだもん。めでタイの鯛。河豚だってそうだよね。ふく=福。
ちなみに、濁点が日本語表記に使われるようになったのは最近のこと。音はあったから、昔から濁点っぽい記号もあることにはあったんけどね。一般的に普及していってルールとして定められたのは昭和のこと。戦後のことなんだよ。だから、濁点の有無は書き文字でのダジャレには考慮されないのが当然ということだ。
ダジャレでお祝いということは、他にもたくさんある。
おせち料理や結納品なんかは、ダジャレのラッシュだ。お祝いごとに願いをこめた料理を入れるし、贈り物としても使われる。
鰹節は男節と女節をあわせるという意味でめでたいし、カツオ=勝つ男という意味でも縁起がいい。豆はまめまめしい=幸せ。数の子は子だくさん。昆布はよろコブだしね。その他色々。
ちなみに、結納などで使われる「あたりめ」はスルメのことだよね。じっくり噛んで味わい深いことから、縁起がいいのだから、ダジャレではない。けどね。アタリメという言い換え自体も言葉遊びなんだよ。スルという言葉が、お金をスルみたいで縁起が悪い。富くじなら当たるほうが良いってことで「アタリメ」なんだ。ちなみに、すり鉢のことを当たり鉢と言ったり、すりごまのことを当り胡麻というのは同じ理由ね。
日本語って、音で遊ぶのが好きなのかな。言霊とか同音異義語で言い換えるとか、かなり多いもんね。
そもそも、文字がない頃の日本語。和語とか大和言葉というけれど。この時代は、音が意味を表していたから、そこにルーツが有るんじゃないかという気がしている。
待つ目印だから松とか、意味の流転もあるし。「はし」はモノゴトの先端という意味合いを持つものに使われる。橋は端をつなぐとか、箸は端でつまむとか。くちばしも先端だよね。言葉の端々なんてもの、端っこ。連続した音の最初と終わりみたいな、さきっちょを示しているとか。河豚(ふく)も膨らむや、ふくよか、袋と同じグループの言葉だったりする。
漢字のような表意文字がなかったから、音で転用していくわけだ。
そういう文化の延長上に「音に意味を持たせる文化」が育っていったのかもしれないよね。だから、お祝い料理のダジャレは訓読みが多のかもしれない。もともと和語が紀元だとしたら、そういうことになるね。こういう文化が日本には古代から根付いている。というのは、ぼくの個人的な想像だからあんまり論拠はないのだけれど。
もともと、記念日には意味がない。正月だって、人間が勝手に「一年の始まり」ということに決めただけだ。なんなら、1年という概念を作り出したのも人間だ。だから、その日自体に意味があったわけじゃないじゃない。
だけど、そこに意味を付けてしまったのだから、結果として意味を感じるようになっていくんだよね。その意味を感じるきっかけのひとつに、雰囲気や行事がある。その行事のひとつにおせち料理がある。昨日の起動スイッチに似ているかもしれない。
これをきっかけに、日本中が正月モードになるわけだから面白いよね。一人じゃなくて、1億以上の人間がモードチェンジするの。凄いことだ。行事食ってそういうことを形にすることが出来るような力をもっているとも言えるね。食事だけじゃないけどさ。なんか、「沢山の人がそういうもんだと信じていること」という力。言語表現が難しいな。
今日も読んでくれてありがとうございます。これって、宗教の起こりや信心に通じているのかもしれないね。現代では宗教的観念が薄いのだけれど、「みんなが信じている」ことって宗教以外にもたくさんあるじゃん。そういう不思議な力、ふわっとした感覚が社会を形成していると思ったら感慨深いよ。