エッセイみたいなもの

今日のエッセイ 私がやろうとしていることは、もう誰かがやっている。 2021年11月15日

「私がやろうとしていることは、大抵の場合他の誰かが既にやっている。」とまあ、思うわけです。それこそ、今までの人類の述べ人数なんて数え切れないくらいいるわけで。直近の200年くらいに限っても相当なサンプルがある。だから、自分が最初だということの方が少ないと思うんだよね。

例えば、こうやってブログを書いている人はたくさんいるよね。ぼくの場合は今年に入ってから毎日アップしているのだけれど。もっとずっと長い間毎日書いている人だっている。現代ではブログという形で表現されることが多くなってきているけれど、文章を書くということで見れば歴史上の多くの人たちもいる。
過去の偉人の文章を読むと、それはそれは素晴らしいものに出会う。近代だったら羅生門なんかは、最強じゃないだろうか。なんだろうね。あの、芥川って人は。もう、真似するにしてもレベルが高すぎるんだよ。

気に入った文章を見つけると、気が向いたときに音読してみると良い。そんなことを聞いた。たしかにそうだろうね。音読してみると、なんとも心地よい文章というものが存在しているのだということを体感できる。音読だからこそ伝わる世界観。とでも言うのだろうか。

ぼくらは、現在インターネットラジオを放送している。このエッセイでも何度と無く紹介しているが「たべものラジオ」だ。視覚で伝えることが出来ないからこそ、伝わるものがあるのかもしれない。
絵がないから、聞く方も想像するしかないじゃない。それは、億劫と言えば億劫なのだろうけど、想像だからこそ解釈が自由で面白いのだ。「古池や蛙飛びこむ水の音」松尾芭蕉の俳句で有名だよね。みんなイメージを思い浮かべることが出来るのじゃないかな。もちろん個人差はある。それでも、何かしらの映像を想起させる文章だ。

能を完成させた世阿弥の書籍「風姿花伝」でも、言葉でイメージさせる技法が語られている。主人公がとある村を訪れる。村外れで翁が登場。主人公は尋ねる。「あの山は名所ではないですか?」問われた翁は、「左様、あれは○○○の謂れある山で△△という、そして」などと、遠くを眺める風体で名所を教えてくれるのだ。だけれども、能舞台の背景は変わらない。変わらなくて良いんだ。観客が勝手に想像するだけ。想像すれば、そこには名所名蹟が現れたように感じられる。

文章を書いたり、ラジオや講演で語ること。これを実行するにあたっては、まず最初に調べるのだ。いきなり実行しても、そりゃ構わない。このエッセイだって、別にたくさんの人が読んでくれているわけじゃないだろうし、失敗しながら学べば良いという考えもある。
けれども、飲食店を経営するとか料理を作るとか、致命的な失敗は避けたいんだよ。失敗はするけれど、しょーもない失敗はしない。そういう状態で事業を進めたいから。だったら、先人たちや現状で先を行っている人がいないか探して、そこから学ぶよね。良いところはパクれば良い。

こんな考え方をするのも、ぼくが料理人であるということもひとつの要因かもしれない。星の数ほどいた料理人たちが、それ以上の数の料理を試して形にしてきたのだ。いまさら、ぼくが思いつくような料理は、きっと誰かがやっているはずだ。このスタンスで調べるところから始める癖がついちゃったんだ。

今日も読んでくれてありがとうございます。料理のことを料理から学ぶだけじゃなくて、他のモノゴトから要素を引用してくるということが出来るかどうか。そのへんは感性なんだろうなあ。うちの会社のコンセプトも料理の考え方も、料理業界ではないところから影響を受けたものだ。

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武藤太郎

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