「たべものラジオ」のこぼれ話です。ちょっと前まで「ふぐ」のシリーズを公開していました。ということで、ふぐの話ね。
ふぐについての文献なんかほとんどない。とても少ない。それに、調べてみてもどんなふうに語ってみても、面白い!と感じる出来事はあんまりない。だから、エンタメとしてはイマイチだったかなあ。反省。
そんな中で、気がついたことがある。ついぞラジオでは喋らなかったのだけど。ずっと昔から、「ふぐは毒魚だ。」ってことが注目を集める要因になっているのだ。「ねぇねえ。フグって毒があるんでしょ?」「毒魚を食べるなんてびっくり!」「よせよせ。命がけだぞ」などと、毒魚であることばかりが取り上げられる。「抜群にうまい!」は、「毒魚であるのに」とか、「毒魚であっても食べたい」とセットで語られているんだよね。
この部分については、1000年前も現代も同じである。
今でこそ、「毒魚だ」というよりも「美味しい」や「高い」がイメージになってきた。それも日本だけのことだけど。これは、明治21年に下関が「フグ食の解禁」となって、昭和23年に大阪で安全のための条例が施行されて、少しずつ「フグ食」の安全を作り上げてきたからだ。安全を告知してきたからだ。
海外の方たちの声は、これではない。江戸時代に松尾芭蕉がビビりまくっていたのと同じだ。ビビって否定している割には、興味津々というところか。「毒のある魚を食べるなんて、日本人はなんてクレイジーなんだ。」「きっと、毒が美味しいんだよ。私達は耐性がないから食べられない。」「日本を訪れたときに命がけで食べたんだけど、信じられない美味しさだったよ。」インターネット上でみかけた、海外からのふぐに対するコメントだ。もはやゲテモノの一歩手前くらいの扱い。
ただ、考えてみたら、これは「ふぐ」だからであって、「毒魚」だからなのだ。そうでなかったら、これだけのコメントは集まらないだろう。それが、どれだけ美味であってもだ。試しに調べてみた。鯛やマグロやヒラメでは、あり得なかった。美味しいという声や、口に合わなかったなどという声はあった。だが、決定的に違うことがあるのだ。興味のレベルが違う。
ふぐについては、主に日本の歴史をたどってきたのだけれど。どの時代でも、どんなに禁止されても「ふぐの魅力」は魔力的だった。打首覚悟で食べるのだ。毒は当然と言ったところか。ビビるポイントが二段構えだ。それでも食べる。
毒がある食べ物というのは、一種のタブーである。タブーというのは、程度によってはそれを犯した時の楽しみというのがあるのかもしれない。全てではない。けれども、人間にはもしかしたらそういった部分が潜んでいるのではなかろうか。
日本という国は、基本的にゆるい。自由だ。古代から中世などは、ヨーロッパのそれと比べてもゆるく生きているように見える。だから、規制されたりはするけれども、「ちょっとくらいは」と自己判断でタブーを乗り越えちゃう輩が登場しやすいのかもしれない。
タブーであることと、それを破ること。これもまた、フグの持つ魅力のひとつだろう。そして、面白がりながら命を粗末にしてしまう人がいて、それを許容してしまうゆるさが日本にあった。だから、日本だけがふぐ食を発展させてきたと考えることもできそうだ。
今日も読んでくれてありがとうございます。原稿がギリギリになると良くないね。こういった考察が間に合わない。収録が終わって、放送されたあとに気がつくんだから。