エッセイみたいなもの

今日のエッセイ ソリューションとセンスメイキングが行き来する話。 2021年11月19日

目の前の課題を解決するための計画が、いつの間にか違う目的に変わってしまう。そんなことは、よくある話だ。課題解決出来た。と喜んでいたら、段々と違う意味を帯び始める。そんなつもりはなかったのに、いつのまにか違ったものに変異していたと、あとになって気がつく。みたいなこと。

ダラダラといろんな話題に転換していくような会話。いわゆる雑談。こんなところでは、よくある。「打ち解けるため」と思っていた雑談が楽しくなっちゃって、そのうちに「雑談するため」にわざわざ時間を作って会いに行く。そういうのが、飲み会だったりするんだよね。話の内容なんかどうでも良くなっちゃってて、一緒にご飯食べて、一緒にお酒を飲んで、一緒の時間を共有する。それ自体が目的化しちゃってる。
元々の目的が「相談」だったり「接待」だったってこともある。だけど、それが消えていって別の意味を持ち始めている。で、実はこっちのほうが大事だって感じているケースも見られるんじゃないかな。

それこそ「接待」と呼ばれる食事会なんかがそうだ。割と優秀なビジネスマンの方々が、優秀だからこそ本来の目的をしっかり守っている。しっかり守っているからこそ、そこに自然発生した意味を捉えそこねる。みたいなことがチョイチョイある。
別に良いんだよ。これから事業を一緒にやる相手だったとしたら、その人と親しい関係になって円滑に仕事を進めたいんでしょ。会話をいろいろと用意している人もいるかもしれないけれど、究極までいっちゃえば、一緒に食事をしたっていう事実だけで。それが楽しかったってことだけあれば。「一緒に過ごす=楽しい」を相互理解すれば達成してるんだから。

こういう発想に切り替わっていくことが、良い事もあれば、そうじゃないこともある。だけど、一歩引いて眺めてみると、ただただ面白いなあという感想になっちゃうんだ。というのは、接待についてはだいたい一歩引いたところから見ているからかもしれないけれど。

食事という行為自体が、ソリューションからセンスメイキングにすり替わっているんだよね。生きるために食べ物を安定的に確保する。これは、先史時代から近代までずーっと人類が抱えてきた課題だよね。日本でも食料が安定して確保できるようになったのは、ホントに近い時代になってからだ。
日本国民のほとんどが、貧富の格差があったとしてもとりあえず飢餓にはならないくらいになった。そうすることで、食事という行為が変わってくる。いや、実際に食べるということは変わっていないのだけれど、意味が変わってくる。

食料をゲットして、それを分かち合う最小単位として存在していたのが「家族」。これを分割すると「個」になる。だから、ギリギリの最小単位。拡大していくと集落や国という概念が登場する。つまり、全ての集団は「食べる」を持続可能にするための集団と言い換えることも出来る。
ところがだ。この課題が消えた。完全に消えたわけじゃないから、薄れた。そうすると、集団を維持する為のインセンティブがなくなるよね。家族なんて、もうその域に達しているケースも多いでしょ。みんなが働いて食事を確保できるようになっちゃったから、個食孤食なんてことが増えている。三丁目の夕日の時代ではあり得なかったんだけどね。

こうなってくると、「食事」の意味が変わってくるんだ。「一緒に食事をする」という行為が、「集団を維持するための装置」として機能し始める。実際そうなっている家庭もあるんじゃないかな。だから、ルールとして「食事は家族揃って」と決めている人達もいるって話を聞く。社会や状況が変わるとともに、違った意味を帯びた最も身近な例かもね。

今日も読んでくれてありがとうございます。「食事」という行為を通史で眺めていくと、社会の変遷が見えて面白い。毎日の生活の中にもあるような、こういう変化を面白がるくらいの余裕があると、きっと楽に生きられるんだろうなあ。なかなかそんな境地には至れていないのだけどね。

  • この記事を書いた人

武藤太郎

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