エッセイみたいなもの

今日のエッセイ 言葉と世界の埋まらない余白を埋めるもの 2021年11月20日

2021年11月20日

プレゼンテーションの資料で、最近は動画や漫画を活用するケースが増えているそうだ。ぼくが現役の営業マンだった頃にはなかなか見られなかった光景だね。動画はまだしも、漫画って。という風潮だったし。もしかしたら今でもそういう感覚って有るのかな。

そういえば、学生向けに教材販売の訴求をするDMにはたいてい漫画が掲載されていたよね。それこそ、今でもそうなんだろうか。何度も何度も受け取っているうちに、「またこのパターンか」ってことにはなっちゃうんだけど。広告手法として、イメージをデザインするには良い方法だったと今になって思うんだ。
便益、ベネフィットの訴求って、数字に表すことが難しい。というか、感情の便益は感情なんだから。そりゃグラフには出来ないよね。

デザインを生業にしている方々のなかで、企画書や企画会議のためのデザインをしている人達がいる。これは、凄いことだ。絵や動画、時には模型。そして、文字。いろんな手法を組み合わせて、複雑なモノゴトを複雑なままに、でもわかりやすく並び替えて見せる。こういう仕事をしている人達がいるんだって。
一般的にデザインという単語を耳にすると、発信することが主な目的だと思ってしまう。もちろん、それはそのとおりなのだが。ただ、整理してわかりやすくする。こういう効果もあるよね。今度は、このデザインが元になって、思考がスタートする。
素敵な仕事だなあ。

そんなことを話していたら、意外と似たようなことをやっているんじゃないかと言われた。確かにそうかもしれない。絵をイラストレーターみたいに描くことは出来ないし、動画も作れない。外注すれば良いのかもしれないけれど、今の所そこまでの労力を割くほどのこともない。ただ、似たようなことが有るという言葉をきっかけに思い出したことも有るんだよね。
文字と、図。

キーワードになりそうな言葉を、ホワイトボードのあちこちに書いたり消したりする。それをグルーピングしてみたり、矢印でもって繋いでみたり。ピクトグラムみたいなものを書き込んでみたりもする。言語化と可視化とでも言うのだろうか。
考えを深めるときには、たしかにこういったことをする。実際、たべものラジオの原稿をまとめているときはそうかもしれない。一度調べきったつもりでいる情報をノートの中に整理し直していくと、新しい気づきが生まれたり、新しい問いが生まれたりする。
街づくりや、観光協会や、商工会議所の会議でもやっているかもしれないなあ。

自分のスペックをPCに置き換えると、ワーキングメモリーが足りないという感覚がある。いろいろ起動しっぱなしにしていることもあるけれど、そもそもが足りていないんだよね。だから、脳内だけで思考を深めるのは無理があるんだよ。そういうわけで、ぼくの場合はワーキングスペースとしてノートとペンが必要になる。なんなら、記憶容量にも限界がある。すぐに限界に達してしまう。下手をすると、自らが発した言葉すら忘れてしまう。そういうときにも、記憶媒体としてノートとペンが活躍する。

なんの話だっけ。そうだ。デザインと、その発信とそれ以外の役割みたいなことだったね。この文脈にあえて同乗させるなら、ぼくのノートとペンがやっていることもデザインのカテゴリに入ることになるのかな。

今日も読んでくれてありがとうございます。言葉だけでは整理できない余白がある。それは、言語が全てを表現することが出来ない存在だからだ。という人もいる。そうだとして、だからこそ絵や動画が活躍するんだろうなあ。そういう意味では、対人関係の余白を料理が埋めるってことがあっても面白いだろう。

  • この記事を書いた人

武藤太郎

掛茶料理むとう2代目 ・代表取締役・会席料理人 資格:日本料理、専門調理師・調理技能士・ ふぐ処理者・調理師 食文化キュレーター・武藤家長男

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