エッセイみたいなもの

今日のエッセイ 人類が食べるものと食べないもの 2021年11月21日

人類が「料理」を発明した要因として、最も大きなものは何でしょうか。なんだろうなあ。火、器、塩、耕作。いろいろと考えられることは有るのだけれど、最大のものと言ったら「雑食であること」かな。
人類が雑食でなかったら、料理なんてものが発達しなかったかもしれないんだよね。これは、ぼくの勝手な思考だから、大した意味はないんだけどさ。個人の感想です。

人間は、どこからどこまでを胃袋にいれる対象とみなしているんだろう。毒がなければ大抵のものは食べちゃうよね。毒があるフグみたいなものでも、毒の部分を特定して除毒しちゃうわけだし。草や木や動物も食べるし、菌やカビ、腐ったものも食べる。腐ったものというとイメージ悪いな。発酵食品のことね。あとは、鉱物も食べている。ミネラルって呼ばれているけれど、鉄もマグネシウムも摂取してるんだもんね。もう、なんでも食べちゃっている。
食用に適したものと判断されたものは食べる。というわけだ。

一方で、食べないというものもある。毒など、食用に適さないものはそうだよね。体に害があるんだから。生命の維持というのが食事の目的。その反対のものは食べない。アタリマエのことだ。だけれども、雑食でない動物からすると、これに該当するのは傷んだものくらいだ。だって、他の食品を食べないんだからさ。
それ以外にも食べないものがあるよね。人間は基本的には共食いしないし、排泄物を食卓に並べるということもしない。一部の例外を除いてだけど。それから、愛玩動物を食べるということも現代ではほとんどしない。ましてや、自分が飼っているペットが食卓に上がるというのは考えただけでもおぞましいと思ってしまう。

動物としてだけ見れば、どれを食べても問題ないはずだ。実際に、愛玩動物が食料として考えられていた時代だってある。信じられないかもしれないけれど、日本だって犬は食材の1つだったってこともあるんだよね。現代人の感覚からするととても野蛮な行為に見えるけれど、その当時はなんとも思っていない。それぞれの社会通念に縛られた感覚というのが、それぞれの時代にあるんだろうね。現代の常識は、他のどこかの時代では非常識だったりする。ということがね。

食べる食べないの話を一気に転回してしまうと。好き嫌いの話もできるな。好きなものと嫌いなものがあるのは当然じゃないか。食べたくないんだ。好きなものだけを食べていたいんだ。別に良いんだよね。そういう考え方も問題ない。石油を飲まない。そりゃ当然でしょ。って思うよね。これは、どの社会でも共通しうる。それは人体に害があるからだね。そうじゃなくて、社会通念みたいなものだと、食べる食べないは違った角度から見なくちゃいけない。もしかしたら、数百年後の未来から見た現代を「肉食の野蛮な時代」とされることになる可能性だってゼロじゃない。

どこからどこまでを可食とするかは、それぞれの社会に定義されることも多いよね。ペットを食べるなんて、まさにこの文脈に乗っかる。その定義が同じ人たちの社会で、それでもさらに好き嫌いがあるということになる。じゃあ、嫌いなものがある人は何が問題として認識されているんだろう。

この辺りのことは、専門家に任せようかな。ここまで書いておいてなんだけど、手に負えそうもないや。でもまあ、家族を持つときに嫌いなものが少ないと楽だよね。お互いに。あと、そういう意味では、食の思考が似通っている人と一緒にいるほうが楽ちんだ。
こういったことを踏まえて、好き嫌いの波があまり無いほうが、いろんな意味で役に立つんじゃないだろうか。

今日も読んでくれてありがとうございます。もしかして、好き嫌いをなくすという語は、実生活に置いて役に立つ。そう役に立つという感覚かな。好き嫌いが駄目ではないけれど、そういうのは少ないほうが役に立つよ。そういう伝え方で子どもたちが納得してくれるかどうかは知らないけどね。

  • この記事を書いた人

武藤太郎

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