エッセイみたいなもの

今日のエッセイ 同調圧力について考えてみた。 2021年11月25日

同調圧力。これは、日本においてはとても良く出会う現象だ。自分だけが他と異質だと見られたくないという感覚なのだろうか。なんで「同調圧力」みたいな力が働くのかなあ。どう思う?

いきなり極論だけれど、別に「人は人、自分は自分」と思っていればそれで良いはずだよね。他人は関係ない。なのだけれど、なかなかそれが出来ないわけだ。どうしてかね。やっぱり、仲間はずれが嫌ってことか。
確かに、精神的なダメージを受けるよ。話しかけても無視されるとか。そういうのはヘコむ。あ、村八分ってすごい仕組みだよね。これはつらい。

同調圧力が効力を発揮するためには、物理的や精神的な攻撃力を伴っているからと言っちゃって良いのか?どうなんだろう。仮にそうだとすると、軍事力を背景に外交をしていた中世とあんまり変わらないんだよね。いう事聞かないと攻撃するぞって。それで国同士が戦争するわけでしょ。人間ってずっとそうやってきたもんね。歴史上。
そういう社会形成へのアンチテーゼとして、現代社会を作ってきたはずだけれど、いまだそういう感じになってないよね。武力を背景としている国もまだあるし、経済力を背景としている国もある。まあ、国の場合は、自国を有利にするために、というのが理由だけど。同調圧力のようなものは、これとは違う理由に見えるんだけど。どうなんだろう。根っこは一緒なのかな。

なんだろうなあ。自分と違うもの。異分子。それが、自分にとって不利に働くのが嫌だ。そういうのも理由なのかな。なんで「みんな一緒」にしたがるんだろう。したがるから、それが圧力なるんだよね。みんな一緒に揃えることができると「権力」を生むのか。説得した人や屈服させた側の人は、自然発生的な発言力を持つかもしれない。これはある。これにたくさんの人が同調すると、異を唱える少数は異分子になっていく。異分子になると生きづらくなるから、同調する側にまわる。
このときに、本心からそう思うのなら良いのだけれど、そうじゃないこともある。だから苦しいんだろうね。困ったことに、同調してみたけれど、実は本心では違うことを考えているということを「自覚」出来ていないこともあるじゃない。あるんだよ。これに後で気がつくと苦しいよね。

みんな、好きなようにやればいいのに。って思うんだけど、それだと「組織」が保てないのかな。だとしたら、組織の側を変えたら良い。組織のほうがおかしい。いや、かつてはそれが良かったということもあったかもしれないけれど、現状で思考の束縛があるのなら、もう型遅れだ。そしたら、組織を変えなくちゃね。そういう柔軟性があればいいのに。
体制護持。この感覚が強いと、同調圧力が強くなるのかもねえ。

みんな、好きにやったらいいのにね。それで、利害がぶつかる部分だけ調整したら良いじゃん。ってのは理想論かな。でも、出来ないことは無いんじゃないかと思っているよ。

今日も読んでくれてありがとうございます。同調圧力が良い方向に働くことも有る。だけど、危険だよ。自分の外側の思想を全排除することになりかねない。このあたりの話は、なんとなく昨日までの「研鑽」の話にも通じているかもね。

  • この記事を書いた人

武藤太郎

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