エッセイみたいなもの

今日のエッセイ 芸能と料理 2021年11月26日

2021年11月26日

芸能と料理ってもしかしたら相性がいいのではないだろうか。と、ちょっと思ったって話。

とある人と雑談していて、たまたまウチの店の料理人の採用が必要なんだよねって話になったときのこと。その方から、吉○興業の芸人さんとかどう?って言われたんだよ。まぁ、冗談半分だとは思うんだけどね。でも、意外と悪くないアイデアかも。ジワリジワリとそう思うようになってきた。

所属とか売れているかどうかとかではなくて、気質が良いのかもしれないと思っている。音楽でも芝居でもコントでもなんでも良いのだけど。とにかく、舞台に立って人を喜ばせることが大好きという人が良い。失敗してもそれを笑いに変えられる人って、心から素敵だなって思うのよ。それってお笑い芸人だからでしょって言うかもしれないけれど、どんな人だって赤っ恥をかいたときにそれをネタにするなんてことは難しいんだよね。軽い失敗くらいだったらどうとでもなる。だけど、人生の大きな失敗はカンタンに笑いに変えるなんてことは出来ない。人間ってそういうプライドくらいは持っているんだもの。
だから、そんなことが出来るお笑い芸人さんにはリスペクトしかないよ。

さてさて。お笑い芸人に限らないのだけれど、自分のつまんないプライドをちょっと横に置いて、それよりも人を楽しませることに快感を覚える人って、いるよね。レアケースだけれど。実は、料理人に向いているんじゃないかって話だ。

料理人って言ったって、色んな人がいる。「どうだ!おれの料理うまいだろう!」と料理を出している人もいる。別に料理に限った話ではなくて、プレゼンでもファシリでも大工でも何でも良いのだけれど、そういうタイプもいる。承認欲求が強めの人。それはそれで、素敵な世界観を作っている。個人的には嫌いじゃない。個性の塊みたいな、尖った人。どうせなら振り切っちゃっている人。料理じゃないけれど、吉田松陰みたいにぶっ飛んでいる人。大好き。

一方で、世界観がとても関係的なタイプもいる。ぼくはこっちかな。自分とお客さんと場とをつなぐような感覚があってね。ぼくじゃない誰かが存在するから、ぼくがこうある。みたいな我の感覚。お客様がAだったらぼくはXだし、BだったらYという流動的でありつつ、機を見て個を出していく。常に新しい提案をしつつも世界のバランスを再構築し続ける。そんな感じ。
いかん。言葉を費やせば費やすほどにややこしくなっている。

ぼくの好きな、能を形作った世阿弥の言葉を引用してみよう。まずその1つに「我見、離見、離見の見」がある。自分の目から見た世界が我見。離見はお客様から見た舞台。それから、天から俯瞰してみているのが離見の見。これを同時に五感で捉えることが大切だと言っている。それから、一調二機三声(いっちょうにきさんせい)。どうでもいいけれど、このくらいはちゃんと変換してほしいよなあ。舞台に立つ前に、音楽や場の空気を察知して調子を整える。それから、機を捉えてここぞというタイミングをはかる。そして、パンっと一気に声を発する。これが演者の心得と言っているのだ。

とても「関係的」だと思うんだ。自分だけの世界観を持ちながらも、それを観衆に放つ際には場の機微を察知して適切にコントロールするということが必要。これは、例えばバンドマンでも一緒。演者は皆一緒。だと思うのよ。そう考えると、プレゼンだろうが料理だろうが、人に「見せる」ことを主眼においた動作は、芸能だとも言えるのかな。

今日も読んでくれてありがとうございます。たまたま人前で話す機会を得た人は、関係的な感覚を持ち合わせる努力をすると良いよ。話しも料理も、こちらの意図や思いが伝わることが目的だから。どう思われても良いから出すってのは、また別次元での話だ。

  • この記事を書いた人

武藤太郎

掛茶料理むとう2代目 ・代表取締役・会席料理人 資格:日本料理、専門調理師・調理技能士・ ふぐ処理者・調理師 食文化キュレーター・武藤家長男

-エッセイみたいなもの
-, , ,