カブキって漫画だよね。そう感じるんだ。怒られちゃうかもしれないけれどね。
別に伝統芸能に詳しいわけじゃないんだけどさ。なんとなく、能とか歌舞伎って「伝統芸能」と言う言葉に縛られがちな気がするんだよ。演じる人よりも見る人のほうがって話ね。
そもそも、歴史を振り返れば歌舞伎っていうのは「大衆演芸」として出発したはずだ。能や狂言よりも、もっとわかりやすく面白さを求めて発展した経緯を持っている。だいたいさ、あんなにデフォルメしてるんだからコントだよ。と言ったらそれこそ各方面から苦情が来るかもしれないけど。
勧進帳って有るでしょ。鎌倉幕府が成立する頃の話で、源義経が兄の頼朝から疎まれて逃げる話。有名な武蔵坊弁慶たちとともに奥州藤原氏を頼って北に逃げ延びるのだけれど、途中の白河関という関所で呼び止められる。そこで、山伏に扮した武蔵坊弁慶が勧進帳を読み上げてうまいこと逃げ延びるのだけれどね。ここで登場する源義経が変なの。明らかに変。
めちゃくちゃ派手な身なりをしていて、美しいんだよ。そんなわけ無いじゃんね。権力者から追われている立場なんだよ。どう考えても、ガチで扮装してるはずだし、地味な身なりにするでしょ。なのに、舞台の中では特別に艶やかな雰囲気を醸し出している。
これは、いったいどういうことだろう。
勧進帳は、能の演目をベースにしているという話だから能のほうも見てみると同じなんだよね。これ、不思議だなあと思っていたんだけど、世界観の演出だったんだよね。幽幻な雰囲気を楽しむためだったり、古代から有る稚児信仰みたいなものを表現するためだったりするわけだ。観客だって、「そんなわけない」とわかっていながらデフォルメを楽しむという文化。
これって、漫画じゃない?あんなに目がぱっちりと大きい人物が実際にいるわけないし、現実味のないデフォルメされたスタイルの女性が描かれていたりする。でも、ぼくらはそれを受け入れているわけ。歌舞伎なんかも同じなんじゃないかなあ。デフォルメされた世界観を楽しむ。この面では一致する気がしていてね。だから市川海老蔵さんが、漫画を歌舞伎に持ち込んでいるのはとても自然なことなんだと思う。ご本人がどういう感覚で演出されているのか知らないけれど、あれだけの方だからわかっていてやっているんじゃないかな。どうなんだろう。
デフォルメと言えば、会席料理なんかも一緒。秋の風景を切り取って八寸盛りに表現する。これだって、現実のものとと並べてしまえば、ありえないことをやっていたりするわけだ。実に抽象的。だけれども、それはあえてデフォルメすることで、「ちっちゃな一部で、雰囲気を醸し出す」力を与えることに繋がるんだよね。あまりにも写実的にすると、いろんな説明が必要になることもしばしばあって、それは無粋だ。だからこそ、デフォルメされた世界観があって、それを食べる人が感じ取って解釈する。
解釈には、作りての思いとは違う内容になることが往々にして有る。だけど、伝えようとしたものが思い通りに伝わらないことはよくある話だよね。このズレこそが楽しさだったりするんじゃないかなあ。
今日も読んでくれてありがとうございます。なにも完璧なものなんてない。世界観が人によってそれぞれに違って解釈されることこそが、新しい世界観を生み出すきっかけになる。そう思うと、世の中って面白いなあって。