エッセイみたいなもの

今日のエッセイ 相互理解を身体感覚でインストールする。 2021年12月1日

めちゃくちゃ固いタイトルにしちゃったけれど、まあ昨日の延長みたいな話ね。

食文化は、世界中にある。国や地域ごとに好みも違うし、考え方も違う。たべものラジオを聞いてくれているリスナーさんは少し伝わるかもしれないけれど、戦後の日本における粉もの運動はそれが顕著に現れているよね。(お米のシリーズの最後の方ね。)西欧と日本の穀物に対する感覚がまるで違うんだよ。

お茶にもあってさ。ぼくら日本人には変な感覚があって、「コーヒーをたくさん飲みすぎると体に良くないから、お茶なら安心だよね」みたいなことを言われる。お茶が健康に良いということが、ぼくらには当たり前のように社会に根づいているからさ。
けれども、そうじゃない社会もあるんだよ。一部のことしか知らないけれど、お茶をたくさん飲みすぎると体に良くないから、今日はコーヒーにしよう。そういう真逆の感覚を持っている文化圏も確かに存在する。ね。面白いでしょ。どっちもどっちなんだけど。

他にも、豆に対する認識も大きく違うんだよ。日本では、豆をしょっぱいものに使ったり、甘くしたりする。味噌や醤油にもするし、しょっぱい系の味付けした豆料理もある。一方で黒豆の蜜煮みたいに甘く煮たものも、あんこもある。多様だよね。甘い料理がちょっと多いのかな。だけど、甘い豆なんか気持ち悪いって感じる人達もいるんだよ。そもそも豆が主食の一部になっている国もあるくらいだしね。そういう文化から見ると、まるで砂糖入りのお粥みたいに感じるわけだ。キモチワルって思ったでしょ。そう見られているんだよ。

こっちが普通であっちが変だ。そういう感覚で話をしていくと、お互いを卑下し合うことになりかねないじゃん。かといって、自虐的に「和食はダサい。フレンチがおしゃれ」に振り切ってしまうのも、アイデンティティの喪失につながる。

政治や社会システム、宗教観みたいなことでも同じことがあるよね。だけど、それって概念的で捉えにくかったりもするわけだ。分かる人にはわかるけれど、そうじゃない人には捉えにくい。だから、そういう文脈で食文化から入っていくと、比較的理解しやすいんじゃないかと思うんだよね。

中国で生まれた「ラーメン」が今や「日式ラーメン」として、中華大陸に逆輸入されている。日本のラーメンは、中国ルーツだということは日本人のほとんどが知っているでしょ。基本的に和食だと捉える人は少ない。だけれども、これだけ原型から変化したものがさ。「面白いよね。」「美味しいよね」ってことで、中国料理文化圏の人たちが逆輸入しているんだよ。いいじゃん。とても柔軟だと思う。
日本料理だって、例えばカリフォルニアロールは寿司じゃないって言い張る人もいるけれど、もっと柔軟で良いんじゃないかな。日本式の寿司ではないけれど、アメリカ式寿司として日本で受け入れたら良い。実際、既に日本でも市民権を得た感じがするよね。

お互いの食文化を知って、リスペクトしながら受け取って、そして取り入れられるものは取り入れていく。たべものラジオの中でも語っているけれど、こういうことがいろんな時代のいろんな場所で起きているんだ。それが理解されずに、相手の文化を低く見ようとする力学が働いてしまうこともあるけれどね。でも美味しいものは、あちこちに浸透していっていつの間にか定着していくものなんだろう。
そういう柔軟さを、食文化の中から「体験」していくこと。身体感覚を通して、理解していくこと。それが、うまく「相互理解」につながればいいよね。

今日も読んでくれてありがとうございます。食料確保しなくちゃいけなかった時代にはなかった「食文化の一般化」がある現代だからこそ、世界のいろんな文化を体験出来るじゃん。基本的に世界が豊かになってきたからだよね。だから、物質的な豊かさの上に精神文化の豊かさが広まればいいと思うんだ。

  • この記事を書いた人

武藤太郎

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