エッセイみたいなもの

今日のエッセイ 飲食店の役割ってこういうこともあるよね?って話。 2021年12月2日

2021年12月2日

いろんな文化が世界中にあってさ。それを理解し合うことがとても大切だと思っているんだ。別に、それに合わせなくちゃいけないって話じゃなくて、「へぇ、なるほどね」というくらいの距離感で良いからちゃんと理解する。完全に理解してしまうことは出来ないだろうけれど、理解しようとする姿勢が大切だよね。そのうえで、僕だったらこうだけどなって言えば良いんだし。

大きな社会でも小さな社会でも、やっぱりぼくが見たい世界観っていうのはこれなんだよね。中世じゃないんだからさ。あの時代は、価値観を一つのベクトルに束ねないと社会が崩壊するようなシステムだったわけで、現代はそんなことないんだ。ダイバシティという言葉がビジネスの中で唱えられるようになってから随分と時間が経っているような気がするけれど、まだまだ浸透していないよなあ。

昨日も書いたけれど、やっぱり頭で理解するだけじゃ足りないのかもしれない。いや、そんなことないかもしれない。よくわからないけれど。ぼくの経験というのは、たったひとつの事例でしかないからなんの根拠にもならないのだけれど、経験的に感じることもあってさ。頭である程度理解したと思えるようなことも、身体で感じると、また違って見えるんだと思うんだよね。腑に落ちるというのかな。

例えば、アメリカってこうだよね。こんな文化があって、こういう思考をしがちだよね。みたいなことは言えるかもしれない。世界史だったり、アメリカ開拓史だったりを勉強して、そう思ったとするじゃない。けど、実際に行ってみて、それもある程度の期間その場所で生活してみると、少し見方が変わるんだよね。勉強したことを補強するかもしれないし、そうでもないぞってことになるかもしれない。ひとりの小さな体験かもしれないけれど、それで腑に落ちることだってある。

だから、ぼくは「身体感覚を通して理解を深める」ということが、現実に存在するのじゃないかと思うんだ。

ロジックの塊みたいな仏教だって、身体感覚で捉えるための修行というシステムを導入しているわけでしょ。なんてことを考えてしまっている。

実際の文化は行ってみて生活してみないとわからないことも多い。それこそ、数日程度じゃわかりっこないんだよ。年単位で生活してみて、しかも現地に溶け込んでみてはじめてわかることがある。人類学者なんかはそういうことをやっているんだよね。
だけど、ぼくらがそこまでの時間を費やすことは現実的に難しいよね。だから、外国の食文化みたいなものを国内で疑似体験できるのはとてもありがたいんだ。○○料理って、国名の入った飲食店があるよね。料理を作っているのが日本人だとしても、ある程度はその国の文化についての雰囲気を感じ取るくらいのことは出来るかもしれない。お店を選んじゃうかもしれないけれど。少なくとも「この料理を作っている人はこの国の料理をこんなふうに捉えているんだな」くらいには感じられるよね。

じゃあ、日本料理店はなんだと言うと。比較対象としてみればいい。現代の家庭料理はかなり海外の食文化が強く取り入れられているよね。和服を着なくなって洋服が中心になっているみたいにさ。だからこそ、日本料理ってどんなだっけ。ってことが端的にわかるよね。
あっちを見てこっちを見る。行きつ戻りつする。そうやって、比較をするとなんとなくぼんやりと見えてくることもあるんじゃないかな。アイデンティティの源流の確認と、異文化の理解。そういうことのきっかけになる。

今日も読んでくれてありがとうございます。食事しながらこんなことを考えている人は、まぁいない。いなくてもいいんだ。環境が整えられていて、知らないうちに体感していくことで、いつの間にかインストールされていくってこともあるらしいからさ。現代社会における外食産業には、こういう社会的な役割もあるんじゃないかな。一側面としてだけどね。

  • この記事を書いた人

武藤太郎

掛茶料理むとう2代目 ・代表取締役・会席料理人 資格:日本料理、専門調理師・調理技能士・ ふぐ処理者・調理師 食文化キュレーター・武藤家長男

-エッセイみたいなもの
-, , , ,