エッセイみたいなもの

今日のエッセイ そもそも「料理」ってなんだ? 2021年12月3日

食の歴史のなかで、料理というものがどういう系譜で発展してきたのか。そんなことを考え出すとキリがない。キリがないのだけれども、そこも考えてみることにする。実は、ぼくらの根本にも通じるかもしれないからさ。

料理というのは、もちろんより美味しくするためにだったり、アーティスティックな表現のためだったりもする。だけど、元々は「摂取するための最適化」だったり、「保存するための変質」だったりすることも多い。そもそも、料理って人類だけの特権なんだよね。僕が知る限りだけど、人類のように料理する動物はいないはずだからさ。なんでこんなことしてるんだろうね。
人類の親戚である猿ですら、料理しない。基本的に人間以外の動物は、自然界にあるものをそのまま摂取することで生きているんだよね。ウシみたいに、胃の中で変質(発酵)させて栄養を摂取する生き物もいるにはいるけれど、それは料理じゃないだろう。

摂取の最適化。例えば、生の豚肉を食べるとお腹をくだすリスクがあるから、「安全に」食べるための工夫としての加熱調理がある。これは「安全」な摂取のためだよね。言い換えると、ブタはそのままでは人間にとって食料ですらないということになる。生命維持のためにはマイナス面の影響が大きいからさ。
お米や麦は、煮るよね。現代はいろんな食べ方があるけれど、基本的には茹でるというか煮るというか、そういう加熱処理をするところから始まった。なにせ固くて食べられない。こういう穀物なんかは、料理する知能を持たない限り食料になっていないかもしれないってことだよね。水でふやかすとか、鍋で茹でるとか、そういう技術を獲得しなければ、食べられないんだから。料理ってすごいことのように見えてきた。

世の中にはいろんな「食料」があるけれど、料理出来なかったらそもそも食料になっていないものだってあるんだということだよね。そう考えると、料理という技術が人類の生存を支えてきたとも言えるかな。

別の角度から見てみる。限られた食材を毎日食べることになる。どういうわけか人間は味覚というものが備わってしまっている。味覚がなければ、毎日機械的に同じものを食べていればよかったのかもしれない。もう、車にガソリンを入れるがごとくにね。だけれども、味覚が備わっていて、美味しいものを味わうことが出来るようになっちゃったわけだ。これがなぜなのかは、諸説あるけれど。それは、おいおいどこかで。たべものラジオでしゃべるかもね。
ともかく、料理で食料を美味しくすることが出来るようになっちゃっているのである。美味しくすると、いいことがあるよね。「嬉しい」。なんというか「快楽」のひとつなんだよ。だから、食べたいという欲求が働くし、食べる意欲が高くなる。継続しやすくなるし、美味しいものを手に入れるために努力するようになる。そんなふうにも見えるんじゃないかと思うんだ。これは僕の個人的な解釈ね。特に科学的な価値はない。

いつだったか何かの本で見たのだけれど、セックスが快楽じゃなかったら種の保存に影響があるというのを読んだ。ちょっと極端だなあと思ったのだけれど、「快楽だからこそ欲求を満たすために生殖行動をする」ことが、子孫繁栄につながっているという見方は、あるかもしれないよね。美味しいものを食べることが快楽なのだから、同じことが言えるんじゃないかと思う。と言う話だ。

料理という行為を文化や技術として捉えてみると、いろいろと面白いことが見えてくるかもしれない。人類学とか人文学とか、何を学んだら言及されているのかさっぱり検討もつかないのだけれど。そのうち見つかるかな。

今日も読んでくれてありがとうございます。頑張ったご褒美に美味しいものを食べるんだって、そういう人は結構たくさんいるよね。もしかしたら、人間はそんなふうに出来ているのかもしれないよ。と、いうのはちょっと偏った考え方かもしれないけど。

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武藤太郎

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