上善如水。お酒じゃないよ。老子だよ。
「上善は水のごとし。水は善く万物を利して争わず。衆人の悪む所に処る。故に道に近し。」
これは老子のなかでも有名な一節よね。このくらいは聞いたことがある。生き方と水を対比して考えているのは結構なインパクトが有るもの。
この概念は、日本では割と有名かもしれない。映画や小説やアニメでもよく取り上げられるから。だけど、老子が問いた概念だということを知っている人は少ないかな。
最も柔らかくて弱そうに見えるものが、実は固いものよりも強い。形のないものはするりと間に入り込むというし、切ろうと思っても壊そうと思っても柔らかすぎて切れようもない。水は水のありのままの弱さに徹底することで、それが本性を発揮する。つまり才能を発揮する。
咀嚼するのにちょっと時間を要するな。水が崖を削っていったり、乾いた土や岩の裂け目にするすると入っていく。しかも、切断しようと思っても切れない。水についてはわかるよね。これを自分に置き換えると、具体的にどういうことだ?ってなる。
老子が言っていて興味深いのは、こういう「無為自然」の状態こそが「本来持っているサガ」を発揮するのだというところだ。つまり、自分の才能を開花させるには「自然体」が良いって。
緊張のあまりに、うまく手足が動かないとか、言葉が出てこないとか、そういうことがあるよね。水は緊張なんてしないよって言っている。ありのままに、素直な姿でいれば緊張もしないから、本来の能力を発揮できるとね。
だけどさあ。どんな状態が「無為自然」なのかって、意外と難しくない?
自分にとっての「本性」と「無為自然」。
水だけじゃなくて、風も光も土もあるように、いろんな人がいるんだからさ。それぞれの本性と無為自然の状態があるわけじゃない。
その状態を見極めるには、現代風に言えば「メタ認知」ってことになる。
自我とはなにかというと、哲学的になってしまうけれど、要はそういうことでしょ。
概念としてはとても共感するし、みんながそうあれば良いと思う。ただ、そこに至るプロセスが難解なんだよねえ。概念を掴んでる人は、それぞれに工夫しながら、時に苦しみながらその境地に向かっていくのだろうけれどさ。そうじゃない人は、永久にその方向には進まないもの。
老子って、なんだか空虚な感じが漂っている。究極的にはメタ認知からの脱力系。結局何もしないのがいいとか言っちゃっているし。そこまで達観出来ていないし、そこまで空虚に並んでも良いのにって思っているんだけどね。
今日も読んでくれてありがとうございます。自然にたゆとうがごとき緩やかさで、静かでそれでいて力強く、時には荒々しく、どこにもある。いや、水って凄いな。