エッセイみたいなもの

今日のエッセイ メタ認知と小説。 2022年1月4日

小説やドラマは楽しいよ。仕事がら地上波のドラマを見る時間は無いのだけれど、オンデマンド動画配信サービスで仕事上がりに見るんだ。映画も良いよね。なんだかんだと近頃は慌ただしいから、時々寝落ちしてしまうのが玉に瑕。

わりと活字中毒な方なので、子供の頃からよく本を読んでいた。社会人になる頃にはいろんな本を読むようにはなったけど、小説はよく読んだよ。最近は小説を読めなくてちょっと寂しい。たべものラジオのために読む本が多くて、なかなか他の本に手を出す時間が取れていないんだ。

メタ認知。という言葉が流行している。

客観的に俯瞰的に自分自身を見ること。そんな理解であっているかな。
まるで、他人事のように俯瞰してみるのって、なかなか出来ないかもしれない。

それが出来ているかと言うと、自信満々には言えない。だけど、それなりに意識はしているし、多少なりとも近いことは出来るようになってきているのじゃないかと思っている。
これも、メタ認知による理解の仕方なんだろうな。

メタ認知に限らず、大体の事柄は「比較」するしか無いんじゃないかと思うんだ。比較と言ったって、AとBの2つを比較して優劣をつけるようなものじゃなくてね。たくさんの事例を見て、そのなかでどんなポジションなんだろうとか。
ポジションという表現はややこしいかもしれないな。
なんとなくマップをイメージしていて、メタ認知だったらそのマップの中で自分はどんなポイントにいて、どう動いているかみたいな感覚。
マップを描くというわけじゃないのだけど、感覚の話ね。

比較対象をたくさん知ると、自分を相対化することが出来る。ここまでは良いよね。
自分が多数派だと勝手に思い込んでいたことが、実はたくさんある考え方のなかのごく一部でしか無いことがわかるとか。そういうこと。

比較対象をたくさん知るためには、たくさんの人物に出会うことが必要になってくる。そして、その人物の感情や考えを知ることだ。知って、そっと横に置いておく。
自分と違うからって、見ないことにしちゃったら意味がないもの。

人生の中で、つまり限られた時間の中で出会って話をして交流できる人数は限られている。そればかりやってたら、仕事や勉強をする時間が足りなくなっちゃうじゃない。出来る人もいるかも知れないけどさ。

こういう時に、小説は良いよ。
学生時代に、「主人公である「わたし」はこのときどのように考えただろうか」という課題に出会ったことあるよね。国語の授業。

テストなんかの問題設定に関しては、個人的には疑問があるのだけれど。それは別の話として。
主人公の感情を読み取ろうとする姿勢はとても良いことだと思うんだよ。だいたい国語の教科書に掲載されている文章は優れたものだから、ハズレがない。その良い教材の中で、登場人物や作者の意図を汲み取る姿勢を身につけるのは、数少ない情報から人間を理解しようとする行動にほかならないわけだ。

現実に出会う人、小説やドラマや映画の中の人、論文やビジネス書の筆者。いろんな人をサンプルとして接することが出来るわけだよね。
こういう言い方は味気がないけれど、とにかく効率がいい。
小説を楽しみながら、人生に深みを与えてくれる出会いももたらしてくれる時間だと思ったら最高じゃない?

今日も読んでくれてありがとうございます。
どういうわけか、活字中毒に育ってしまったのは環境のせいなのかなあ。ともあれ、本が好きな人間に育ててくれたことに感謝だよ。

  • この記事を書いた人

武藤太郎

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