エッセイみたいなもの

今日のエッセイ あるものを活かす。 2022年1月8日

街づくりの歴史を振り返ってみてみると、空の上から見たやり方が主流だった時代があることがわかる。
地図をぱっと広げて、その上にこのエリアはこれだとか、あっちのエリアはこうしようという具合に考えられていることがあったんだね。

一見すると、とても合理的で素敵な街になるように見えるのだけれど、実際のところはこのやり方でうまく言った町というのは限られている。海外で有名なのはブラジリア。

日本だと、江戸や京都がそうだ。平安京はなにもない所に碁盤の目のような道路を敷いて、それぞれに機能的な町づくりをしたよね。徳川家康が江戸に町を開くときも、しっかりと図面を引いてから町の全体像を書き込んでいったわけだ。

これと同じことを現代でやろうとすると、少しばかり無理が生じるのでは?
そんなふうに思うようになったんだ。
「なった」と言ったのは、それまではこのやり方が良いとか悪いとかの意識すらなかったからだ。

現代では、おそらく「なにもない」と表現できるエリアなんてものは見つからない。見つかりっこないのだ。大抵の場合何かがある。
少し前までは「山ばっかりでなんにも無い」と言われたこともあったけれど、もう山を切り開くのは限界が近いんじゃないか。これ以上山を崩してしまうと、この国が平になっていく。上りも下りもなくなって自転車移動が楽になると思うかもしれないけれど。それだとサイクリングの楽しみが無くなってしまうではないか。

まあ、別にサイクリングを趣味にしているわけじゃないのだけれどね。

今の町には誰かが住んでいて、畑も山も誰かの所有物だ。天皇や将軍や藩主のものではない。だから、勝手なことが出来るわけじゃない。それに、これだけ入り組んだ流れを作り直すとなると、今までの流れをすべて作り変えることになってしまう。
やれ土地はこっちの管轄だ、道路はあっちだ、公園はそっちだ。調整ごともあれこれと発生する。
とても面倒なことだ。

となると、今ある状況をそのまま受け入れた上でどうするかと考えるのが良い。
そういうことになる。

空の上の方から見るよりも、歩行者の目線で見てみると良い。ツギハギのように見えている町だって、グラデーションで繋がっているのだ。そのつなぎ目を少し補足するだけでも、よりなめらかなつながりに見えてくるの。そういうくらいの感覚で町を眺めたらいいのかもしれない。

観光スポットがあるなら、そこまで歩いてみて感じること。ここらに休憩所があったらいいなとか、トイレが欲しいとか。そんなこと。買い物にしても、遊ぶにしても、なにか感じることがあるかもしれない。無いかもしれないが。
とにかく、いろんな人の気持ちになって歩いてみる。
寂しい場所や、不足しているもの、邪魔なもの、そういうことを探してみると、案外うまくつながるかもしれない。

今日も読んでくれてありがとうございます。今手元にある食材を、料理する。調味料や加工技術でどうにかする。料理だったらアタリマエのことなんだけどなあ。あるものを活かすってそういうことだ。

  • この記事を書いた人

武藤太郎

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