エッセイみたいなもの

今日のエッセイ 寿命が伸びると感性は変わるのか? 2022年1月17日

「人間五十年~下天のうちを比ぶれば~」とは、織田信長が好んで謳ったと言われている。戦国時代から見たら人間の寿命は、どんどん伸びているよね。

織田信長が生きていた時代が16世紀。今21世紀。
およそ500年の間に、倍近くまで寿命が伸びたってことか。
となると、もう500年もすると人生150年時代がやってくるのか。困ったなあ。長すぎてどうして良いかわからないよ。60歳で定年退職してから、まだ90年もあるんだよ。どうしようかな。

心配しなくても、そんな時代までぼくが生きている確率は限りなく低い。

「人生100年時代」と言われるようになって、いずれそうなるとみんなが本気で思い始めた。中世や近世の人達に言ったら、爆笑されること請け合いだ。そんなわけあるかと。だけれども、「いずれ」がもうそんなに遠くないという感覚が世界中で定着しつつある。

そこで、人間の平均寿命がもっと短かったら世の中がどう見えるのか、逆にもっともっと長かったらどう見えるのか。ということが少し気になってきた。というわけだ。

自覚的に人生を生きている時間が短いと、その分だけ短い期間で物事を考えるようになりそうだよね。結果が出るまでに何十年も待っていられない。という気がする一方で、昔は時間がかかる事業がとても多かったはずだ。通信も移動も現代に比べてもっともっと時間がかかる。人口だってずいぶんと少ない。つまり動員できる人口にも限りがある。つまり社会の流れが現代に比べるとゆっくりなのだ。

そんな状況なのにも関わらず、だいたい50年くらいで人は死ぬよねって感覚。どうするんだ?行き急ぐのか?それとも、事業のひとつずつが爆発的なのか?細かい戦略よりも、ボンッ!ボン!っという感じになるのかな。戦国時代なんかはそういう側面もありそうだ。

と同時に、引き継ぎが重要になるんだろうなあ。途中までやったから、あとは後継者に託すよ。息子でもいいけど、ちゃんとやってくれるなら他の人でも良い。みたいな感じ。
なんだろうね。自分が生きている間には見ることがかなわない景色を、次の世代に渡しちゃうの。渡さざるを得ないんだろうけどさ。死んだあとのことなんかしらんわ。ってならなかったのかな。

個よりも家を大切にする。
日本は近世まで続くし、近現代でもその名残がある。共和政ローマなんかもそうだよね。カエサルのお父さんも息子もみんなカエサル。とにかく家が大事。
存在できる時間と、頭の中で感知している時間軸がマッチングしないことがわかりやすかったからこそ、引き継ぐための仕組みが出来上がっていったのかもしれないよなあ。

ああ、勝手な妄想だからね。どんな研究がされているのかは知らんよ。

今日も読んでくれてありがとうございます。
千利休によって確立された「侘び茶」は、現代とは違う時間軸の中で体系立てられていったんだよね。ぼくらの感覚とはまた違うんじゃないかと思ってきた。まあ、利休は当時としてはかなり長生きの人だから、どんな感覚だったのかはわからないけどね。

  • この記事を書いた人

武藤太郎

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