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今日のエッセイ 産業革命と盛り付けは繋がっているのか? 2022年1月20日

産業革命は社会にたくさんの変化をもたらした。社会の教科書でも語られていることだ。
これに、ぼくなりの勝手な解釈を付け加えて遊んでみようと思う。特に価値は無いだろうけれど、遊びだね。

まず、復習。
産業革命が起きたことで、いろんな「モノ」が大量発生した。しかも、比較的入手可能な価格で流通することになった。それは、主に工業製品だし、結果として重商主義を加速させることになったね。

大量発生したモノの中に「カメラ」があるんだけど、これが実は料理の盛り付けにも影響しているのじゃないかと思ってさ。
それまでの絵画というのは、写実的な表現が主流だった。とにかく現実そっくりに世界を描写することが良かった。
現実に目に見えるものじゃなくてもそうだったよね。見たこともない景色。例えば最後の晩餐。それを、あたかも目の前にあるかのような現実感が最上とされていたわけだ。

時代背景を考えれば、そりゃそうだよね。
ところが、カメラが登場して写真が流通し始めると、人間が描いた絵よりももっと写実的な表現が出来るようになったわけだ。これで、絵師の仕事がなくなるかと思いきや、画家たちは違う方向に活路を見出す。
自分というフィルターを通してしか見ることが出来ない景色を描く。

そのなかでも興味深いのは「抽象画」の誕生。
細かいところは無視して、わたしにはこんなふうに見えたんだよとか、感じたんだよということをストレートに表現するようになった。
個人的な見方になるけれど、細かい部分を敢えて描かないということをしているように感じるんだ。写真でいうと背景がぼやけている感じなんだろうけれど、それをもっと極端にやっちゃうの。見たいところ、見せたいところだけにフォーカスしちゃう。

これは、主題を明示することを強化しているとも言えるし、一方で背景に想像の余地を与えたこととも言えるんじゃないかな。

この話がどこに終着するかというと、もしかしたら料理の「盛り付け」に影響を与えてるんじゃないかという妄想をしたということだ。

宮廷料理に端を発するヨーロッパの料理は、現代ではとても抽象的に見える。デザイン的というか、幾何学模様などの画風を感じるんだよね。なにかの景色をかたどったものよりも、ぐっと抽象度を上げてもはやなんだかわからないレベルにまで抽象化してしまう。
けれども、なんとなく太陽の暖かさを感じるような色合いで雰囲気をだしてみたりしてみる。そういった盛り付けの遊びがあるようにも見える。

主題を強化することを皿の上で表現する。
そんなふうにも見えなくはないかな。

日本の盛り付けも抽象度が高いものの、それはまたちょっと違った文脈に見えるのだ。ちょっとした対比構造だ。
日本料理の盛り付けは、余白を演じるようにも見ることが出来るのかもしれない。なにもない空間を意識的に演出して、足らないなにかを感じてもらうこと。

かなり強引なフカヨミだろうか。どうだろう。

今日も読んでくれてありがとうございます。遊びだからね。なんの根拠もないよ。全然違うようにも見えるし、そうだというようにも見えなくもないね、というくらいのもんだ。

  • この記事を書いた人

武藤太郎

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