エッセイみたいなもの

今日のエッセイ 理屈っぽいと言われる人。 2022年1月21日

よく「理屈っぽい」と言われる。その自覚もある。

理屈っぽいという表現には、二通りの解釈があるんじゃないかと思って書き始めてみたんだけど、さてどうなることか。

 

大抵の場合「君は理屈っぽい」というセリフは、非難の色が滲んでいるよね。

会話の流れをうまく掴んでいない時に聞くことがある。

例えば、感情を共有したいだけの時。そうだなあ。映画や絵を一緒に見て、感動したねと言うときだ。どのシーンが良かったというときは、ただひたすらに「良かった」や「感動した」さえ共有しあっておけば良いのだ。

良いというか、それを求められているからね。

それはそれで良いのだ。

 

この時、解像度に差があるとき。解像度の高いほうが理屈っぽいという評価を受けることになる。

それは、どこがどう良かったのかを細部の表現をする時に起きる。

あのシーンの、この評定のアップが良かったよね。他の作品だったら、あんなふうにはしないのだけれど。などと、細かな部分の表現が入り込むことがある。

そんな解説は求めてないんだよ。

と言ってしまえばそれまでかもしれないけれど、当の本人がそこに感動しているのだからしょうがないとも言えるよね。

 

映画を見た感動を共有する。

目的は同じなのに、解像度が違うことで片方が「理屈っぽい」となり、片方が「大雑把」ということになってしまうのだ。「理屈っぽい」と言われる人は、細部を構造的に、もしくは言語で理解したい人種なのかもしれないね。

ということを

「理屈っぽい」と言われているぼくが

「理屈っぽく」書き出した文章がこれだ。

 

大局を見て全体の感情を掴みたい人。

細部まで掴みたい人。

どちらが良いという話じゃなくて、そういうタイプの違いってことなんじゃないかな。

お互いに

そういう見方もあるんだ。面白いね。

ということで、良い。

ということにしてもらえないかな。

 

今日も読んでくれてありがとうございます。学生時代の友人と飲みながら話してたらよくわからなくなっちゃってさ。整理したくなって、書きながら考えてみるということにしたのだ。このあたりが「理屈っぽい」人なんだろうなあ。

  • この記事を書いた人

武藤太郎

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